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十一代 小笠原政康

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深志の城主、信濃国守護職。応永二十二年(一四一五)関東管領の上杉禅秀の乱で政康の働きはめざましく、将軍足利義持より信濃国更科郡の一部を与えられている。後、将軍足利義教の糾方師範となる。
 永享八年(一四三六)、政康と埴科の村上頼清の間で国境争いが起こり、戦いになった。村上は、小笠原に敗れると、これを鎌倉公方の足利持氏に訴えた。持氏は、村上応援を考えたが、関東管領の上杉憲実は、これに反対し、次のような意見を出して持氏を諌めた。
 
一、小笠原、村上は、私の争いであり、鎌倉公方の口出しすべきことではない。
二、小笠原は、清和源氏の同族。
三、訴訟の真偽を調べずに出兵するのは、太平の策ではない。
四、小笠原政康は、将軍義教の弓の師範であるから将軍は小笠原を救護する。幕府と鎌倉公方は、兄弟の間柄
  であるのに幕府と対立が起こる。
 
 しかし、持氏は、これを聞かず出動した。そのため上杉憲実は、愛想をつかし、管領職を辞めて国元の上野国に引っ込んだ。これに乗じて持氏は、永享十年(一四三八)に憲実追討の軍を起こした。室町幕府は、このような持氏を討つべしとして、小笠原政康、武田信重、今川憲忠らに命じて出兵させた。その結果、持氏は、鎌倉の永安寺で戦に敗れ、自害した。これが「永享の乱」と呼ばれている。この戦いで、政康の功労と高名は、天下になりひびき、従三位にのぼり、中将に任ぜられた。小笠原の家名もまた大いにあがったが、嘉吉二年(一四四二)六七歳で没。