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十二代 小笠原持長

1276 ~ 1277 / 1391ページ
深志の城主、信濃国守護職。十一代政康の死後、家督をめぐって争いが起こり、お家騒動まで発展した。政康には、持長と宗康の子供がおり、持長は、長将の養子になっていた。持長が家督を譲られたと主張、政康の子宗康は、父の遺言状を示して反論し、幕府の問注所に訴えた。問注所宗康の相続を決定したが、長将側は承知せず、親族になる畠山管領の権威をかりて反対した。ついに戦いとなり、長将側の持長が勝ち、宗康は討ち死にした。まさに骨肉相はむ戦いの結果、持長が家督を継ぎ、信濃国守護職となり、また、将軍足利義政の糾方師範になった。寛正三年(一四六二)六七歳で没。
 討ち死にした宗康の弟光康は、なかなかの武将で、持長が家を継ぐと、伊那郡松尾に一家を興した。これが松尾小笠原の祖で、後年、徳川時代に越前勝山二万二七〇〇石の大名となるのである。