ビューア該当ページ

十四代 小笠原長朝

1277 ~ 1277 / 1391ページ
長朝は林の館で生まれ、父の死後家を継ぎ信濃国守護職になった。持長と宗康が家督を争ってから既に三十数年たっていたが、まだこの問題がくすぶっていた。討ち死にした宗康の子政秀は、小笠原一門として伊那郡に城を構えていたが、家督をめぐって一時、長朝と争うことになった。しかし、当時、戦乱の世であり、自分の国が治まらなくてはいつ他国から攻められるかも知れず、政秀は長朝と和睦し、長朝を養子という形にして解決させ、伊那にかえって鈴ケ関に住んでいた。
 政康の遺言状が政秀の家にある限り、いつまた問題が起こるかもしれないとして、この不安を絶つため長朝は、政秀に礼をつくしてこの書類を譲り受け、後世の憂いをぬぐい去ることが出来た。文亀元年(一五〇一)五九歳で没。