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十七代 小笠原長時

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長時は、永正十一年(一五一四)林の館で生まれ、大永六年(一五二六)一三歳で元服した。この時代は戦乱の真っただなかで、大名、豪族互いに攻めあい、百姓は一揆を起こし、同族といえども自分の利益のためなら裏切りあい、頼みとするのはただ自分の軍事力だけという時であった。隣の甲斐国では、武田信虎が威を張り、近隣に出兵しては暴威をふるった。武田氏と小笠原氏はともに新羅三郎義光を祖とし、兄弟の間柄を保っていたが、武田氏の勢いが大きくなり、信州の地が危なくなってきた。小笠原氏の本城である深志城は、これまで城代にまかせていたが、長時は、天文三年(一五三四)林の館を出て深志城にはいり、信州防衛の指揮に当たることになった。
 しかし、小笠原氏は、武田信玄によって林の館、深志城を攻められ、勇戦したが利あらず、長時は、初め越後上杉氏を頼って落ち、さらに奥州の会津若松城に逃れた。その後、信州には帰れず、会津若松城主葦名家で天正十一年(一五八三)二月二十五日、六五歳で波乱にとんだ一生を終わった。誠に悲劇の武将である。
 法名は、長時院麒翁正麟大居士、菩提寺正麟寺は松本市にある。小笠原にとって誠に危機に瀕した時代である。