ビューア該当ページ

十八代 小笠原貞慶(さだよし)

1280 ~ 1280 / 1391ページ
貞慶は、天文十五年(一五四六)林の館で生まれ、天性利発で非常に優れ、父長時も目をかけていた。小笠原伝来の弓馬の法にも精通し、小笠原の道統を父より受けついでいる。長時が晩年、信州を逃れ、葦名盛氏のもとに身を寄せるようになったのも、貞慶が小笠原再興を練る諸国遍歴の途中で、葦名盛氏と昵懇(じっこん)の間柄になっていたことによるものである。貞慶は、諸国遍歴のあと、徳川家康のもとに寄食していた。その後、徳川家康の後押しで、三十二年ぶりに深志を取り戻した。
 そして、この地を松本と改め、深志城を松本城と呼ぶよう布告した。天正十年(一五八二)七月十七日であった。その後、貞慶は徳川家康と君臣関係を結び、その人質として嫡子幸松丸(秀政)を家康におくり、以後小笠原家は安定した。その後、貞慶は、秀政に家督を譲り、秀政は、家康の嫡子信康の娘福姫を妻とし家康の譜代衆に加えられた。天正十八年(一五九〇)九月、秀政は松本で八万石であったが、三万石をもって家康の関東移封に従い、下総古河城主に移った。貞慶は、文禄四年(一五九五)五〇歳で死亡した。法名は、大隆寺殿以清宗得大居士。