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十九代 小笠原秀政

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山城国宇治田原生まれ。父貞慶が、徳川家康と君臣関係を結ぶことにより、幸松丸(秀政)は、人質として岡崎城代石川数正の館にお預かりとなった。天正十七年(一五八九)正月豊臣秀吉の計らいで信濃守に任じられ、家督を相続した。そして同年八月、秀吉の命により、家康の嫡子岡崎三郎信康の娘、福姫(峯高寺の開基)と結婚。続いて同年の小田原の役には、父子共々徳川氏に属し、戦功をたてた。天正十八年(一五九〇)に秀政は、父貞慶と共に古河に移封となった。慶長六年(一六〇一)二月、古河にあること一〇年で飯田へ移封、五万石で祖先の地に帰ってきた。古河在封中に父貞慶死去。古河大隆山正麟寺に葬り、後に隆岩寺に改葬した。慶長十八年(一六一三)五月十日、秀政は、飯田より松本へ所替えとなり、八万石を賜る。飯田在封のとき、正室福姫が死亡し、峯高寺を建立している(慶長十二年)。
 元和元年(一六一五)豊臣・徳川両家の争いとなった大坂夏の陣で、秀政と長男忠脩(ただなが)が戦死した。父子両公の遺骨は松本に運ばれ、埋橋の剣塚に葬られたが、後に林城の麓にある広沢寺境内に改葬された。現在、広沢寺本堂裏に御霊屋(おたまや)と称せられる立派な両公のお墓がある。享年四七歳であった。法号は両選院殿義叟宗玄居士。菩提寺の宗玄寺は、小倉に現存する。
 『松本市誌』に、「秀政文武両道に長じたるは勿論、更に神仏を崇敬し、深く禅理に精通せしこと、貞宗以来の一人なりと称せられる。意を政治に留め、能く民情を察し、農事を励まし、商業を勤め、博愛慈にして領民大いに悦服せり。」とある。