・慶長元年(一五九六) | 下総国古河の館で生まれる。秀政の次男。母は徳川家康・織田信長の孫姫で、そして岡崎三郎信康の長女である福姫(現在、京都郡豊津町峯高寺の開基)、元服して将軍秀忠より忠の字を賜り忠政と名乗っていたが、のち忠真と改め、従五位下に叙せられ、大学助(または頭)に任じられる。父秀政より糾方的伝。 |
・元和元年(一六一五) | 大坂夏の陣で負傷。父秀政、兄忠脩戦死し、葬儀を修め、有功者に恩賞を与える。 |
・元和元年(一六一五) | 七月伏見城で遺領を賜り、松本城八万石の家督を相続する。 |
・元和二年(一六一六) | 将軍秀忠、亡兄忠脩の未亡人本多美濃守忠政の娘(家康の曾孫娘)との結婚を忠真にすすめ、忠真はその命に従う。 |
〃 | 七月二十八日二万石加増となって播磨明石へ転封を命ぜられた。明石では二年がかりで城の新築造作にあたり、また現在の明石城と町づくりをしている。 |
・寛永九年(一六三二) | 将軍家光より、豊前国小倉一五万石を賜り、従四位下右近将監に叙任された。 |
小倉小笠原藩主の第一世である。なお、亡兄忠脩の遺児幸松丸は、播磨竜野六万石を与えられ、長次と改名していたが、同年竜野より中津八万石に転封した。 | |
・寛文七年(一六六七) | 忠真七二歳で逝去す。法名は福聚寺殿徳生大居士。現在小倉北区にある広寿山福聚寺の開基である。 |
『松本市誌』に「忠眞敬神崇仏の心厚く、父秀政と共に貞宗に比されたり。性寛仁公平にして心を治政に用ふ。然れども在城僅かに三カ年して転封せしは誠に惜しむべき事なり。」とある。
忠眞以後、小笠原家は、小倉城主として明治維新に至るまで小倉で続いた。明治維新後、昭和二十年(一九四五)、太平洋戦争の終戦まで伯爵家であった。