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小倉藩 二代 小笠原 忠雄

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 ・正保四年(一六四七)五月二十日豊前小倉城で生まれる。母は、家の女房那須氏(後号永貞院と号す)。
 ・承応三年(一六五四)二月弓馬の稽古を始め、並びに手習読書を始めた。
 ・寛文三年(一六六三)従五位下に叙せられ、遠江守と称した。
 ・寛文四年(一六六四)正月十一日父忠真より糾方相伝(一八歳)
 ・    〃忠真の隠居によって忠雄家督を継ぐ。
 ・寛文五年(一六六五)中国僧即非、広寿山福聚禅寺創建す。
 ・元禄七年(一六九四)五月十日貞慶百回忌法要を大隆寺で修す(住職鏡岩和尚)。
 ・元禄十二年(一六九九)八月二十五日貞宗三百五十回忌を開善寺で修す(住職岱霊和尚)。
 ・元禄十四年(一七〇一)二月十二日広寿山の境内如意庵を長清寺(小笠原初代長清供養の寺)と改号し、長清の位牌を安置する。法雲和尚を開祖とする。
 ・宝永三年(一七〇六)十月十八日峯高寺殿(現在豊津町二月谷)百回忌を峯高寺で修す(住職貞龍和尚)。
 ・正徳四年(一七一四)十二月公儀より諸国人改めの番所を書き出す旨を仰せ出され、小倉湊口と大里門司とした。
十二月宗門改の場所は大隆寺、宗玄寺、峯高寺、以上三ヵ所が順番であったが、「今年より長福寺と極し也。」とある。
 ・享保十年(一七二五)忠雄逝去す、享年七九歳。静照院殿暁山紹栄大居士、広寿山に葬る。