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小倉藩 四代 小笠原 忠総

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 ・享保十二年(一七二七)八月二十二日豊前国小倉城で生まれる。忠基の六男で、母は家女房木村氏。
 ・寛保元年(一七四一)正月十八日兄忠貞が逝去し、忠総が嫡子となる。
三月二十二日忠総具足着始めの規式あり。父忠基より糾方的伝(一五歳)。
 ・寛保三年(一七四三)十一月十二日元服し、十一月十九日従五位下に叙せられ伊予守と称した。
 ・宝暦二年(一七五二)忠総遺領を継ぐ。
 ・宝暦八年(一七五八)五月城西三の丸の内に書斎を創建し、思永斎と号し、石川平兵衛正恒・麟洲が開業を務めた。後年の藩校思永館の萌芽である。
 ・明和元年(一七六四)五月七日秀政・忠脩の百五十四回忌を宗玄寺で修す。同時に大坂の役で摂津討ち死にの子孫のみに斎を賜う。
 ・天明元年(一七八一)二月信州林村の広沢寺より本堂庫裡再建の願い出があり、白銀二〇枚を寄附した。
 ・天明八年(一七八八)思永斎の地面を広め、弓馬術の稽古場を造立した。
 ・天明九年(一七八九)小倉城三の丸に学館を建て、思永館とした。
 ・寛政二年(一七九〇)五月二十五日将軍家斉の御前で御誕生の節蟇目(ひきめ)の役仰せられる。懐妊の女中は平塚伊賀守オマンの方。
 十月御奥御誕生を伊豆守より伝達あり。忠総は直垂、忠苗は大紋で父子登城し、
 家法の蟇目射の式を務めた。
 十月十三日御誕生の儀を務めた功に対し、将軍より忠総は御時服一〇、忠苗五
 を拝領す。
十二月十二日逝去、享年六四歳。諦観院殿眞乗道円大居士、浅草海禅寺に葬る。