・文久二年(一八六二) | 二月八日父は忠幹、小倉城で生まれる。母は家女上田氏。 |
・慶応二年(一八六六) | 幕府第二回征長令を下す。 |
| 七月三日長州軍大里に上陸、小倉の地で戦闘。 |
| 八月一日小倉城を自焼し、小笠原藩世子豊千代丸一行および家中田川郡、京都郡に退避。そして、その後、豊千代丸一行は肥後細川藩に退避。 |
・慶応三年(一八六七) | 一月二十八日止戦談判成立。 |
| 三月十八日香春藩発足。 |
| 五月二十一日豊千代丸、熊本で忠忱と改名。 |
| 六月二日前藩主忠幹の逝去のお触れ発す(実は慶応元年九月に逝去)。 |
| 六月二十五日忠忱、遺領豊前一五万石の相続を仰せ付られる。 |
・明治元年(一八六八) | 三月七日忠忱(七歳)肥後より帰国し、仮御住居所、田川郡上赤の正福寺に帰着。 |
| 奥羽征討奥羽派遣軍出発 |
| 十一月家士の投票などにより城地の選定をし、仲津郡錦原にその地を選ぶ(現在の豊津)。 |
・明治二年(一八六九) | 六月戊辰戦争奥羽出兵の功により五〇〇〇石御加増。 |
| 六月十八日小倉藩版籍奉還。 |
| 六月二十七日香春藩知事を仰せ付けらる。 |
| 十二月二十四日豊津藩と改称。 |
| 十一月二十二日錦原を豊津と改名。 |
・明治三年(一八七〇) | 一月十一日藩校育徳館開校。 |
| 一月十五日藩庁御上棟の儀式、豊津藩庁事始め。 |
・明治四年(一八七一) | 五月一日育徳館で会津斗南藩よりの留学生郡長正自刃。 |
| 七月十四日廃藩置県、豊津藩を豊津県と称す。 |
| 十一月十四日豊津県を廃し、小倉県を置く。 |
・明治十七年(一八八四) | 伯爵。 |
・明治三十年(一八九七) | 叙従三位勲三等瑞宝章を賜う。 |
| 二月五日忠忱逝去、錦陵院殿明道丕徳大居士、三六歳。浅草海禅寺に葬る。 |