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[人畜改帳にみる社寺]

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 元和八年(一六二二)「小倉藩人畜御改帳」より仲津郡のなかから現在の豊津町に含まれる一五ヵ村をひろい出し、人口、世帯数、職業別にまとめたのが第117表である。
 
第117表 「小倉藩人畜改帳」(元和8年)にみる郷土
 


農 家




人口


本百姓
小百姓





名子
荒仕子
成年
男子
未成年
男子




本百姓
小百姓
節丸78303252481588632521218267225
光冨4515194130995219411512104718
国分69192151150148762151111917207230
国作5120111831110671118281814317
呰見3181421236333142121013305
綾野3194412283464411310143713
田中57111914611364191131525497
上原25817174622171364249
徳政3871513189511511711163813
徳永1461418231614131674
彦徳481018138784218122823616
下原147257482225276267
吉岡53122105121152
惣社1941315361913915177
有久327151255126154511258
557164122123111423931,155627122123111323162139160528181

 
 一五ヵ村の人口一一五五人、世帯数一六四戸であるが、職業別にみると農家は九〇%の一四六戸。農家でない家一八戸(農家ではないが、副業的に農業を営んでいたのではないかと思われる)。牢人(入獄中の人ではなく主として主をもたない浪人―武士―をさす)一一人、戦国時代の混乱期において仕官の機会を失ったのであろう。戦国の遺風が残っている面もある。鍛冶二人、国分村に一人、徳永村に一人であるが、国分寺の工房から独立したのではないだろうか(当時の手工業は有力社寺や荘園付属の工房から独立した例があった)。
 さて宗教について、まず神社からみると、一五ヵ村の中で光冨に一人の神職しかいない。現在の光冨にある徳矢神社のことをさしているのであろう。十一、十二世紀のころ、国作に国司の建てた惣社八幡宮や彦徳村の神社が無いのはなぜだろうか。しかもこれより約七二年ぐらいあとの元禄七年(一六九四)仲津郡宮々並社司御改帳」では国作村惣社八幡をはじめ、国分村山王社、徳政村若宮八幡宮、綾野村北山大明神、下原村天八幡宮、呰見村三社大明神、有久村貴船大明神、吉岡村貴船大明神、上原村八幡宮、徳永村五社大明神の一〇社が記録されている。ただし、以上の神社の神職は、いずれも村外に在住していたようである。
 人畜改帳の作られた元和年間に一社だけあった神社が、七〇年後の元禄年間には一挙に一〇社が記録されているのは、当時の農民の社会生活と深いかかわりがあるのではないかと思われる。元和から元禄にかけて農村社会が安定し、農民の生活が向上し、それにあわせて神仏への信仰心も篤くなり、神社社殿の造営や専業の神職を置いたり、生活の余裕の一部を神社に寄進するようになったことによるのであろう。
 それまでは、農民の生活は貧困で、神社を造ったり、修理したり、また専業の神職を置いたりすることが出来ず、粗末な祠のごときものを村の人々がほそぼそとお守りするというのが一般的な信仰形態ではなかったかと思われる。
 十一、十二世紀のころ、国司の建てた惣社のながれをくむ神社は、元和時代当時の周辺の住民にとって信仰にはかかわりはなく、住民から見放されて、祠のようなものになっていたのであろう。
 次に、寺院は、一五ケ村の中で四寺院あったようである。国分、呰見、彦徳、有久の各村に各一寺である。
 僧侶(坊主)は、国分、呰見、彦徳に一人いるが、有久にはいない。当時は、徳川幕府がキリスト教禁教政策をとり始め、元和四年(一六一八)には、キリスト教弾圧により二五人の処刑を行っており、仏教教団は、保護される傾向にあった。その後に寺請制度が確立されている。
 国分村の寺一は国分寺であることはすぐ分かる。『豊津町誌』で古賀武夫は次のように述べている。
 
 「国分寺が豊津町内最古の寺であることはもちろんであるが、同寺の享保二十年(一七三五)の縁起によると、天正のころ(一五八〇年前後)大友氏の兵火にあったあと、子院の一つ心海院の僧英賢が国分寺の跡に庵を結んで再建の業を始め、そのあと円慶がこれをついで百方努力したが、円慶の『没後歳月寖(シン)久、堂宇亦圯(と)廃 自其歴四十余年 至慶安三庚寅年 有尊応者』とあるので、この人畜改帳が出来たのは、尊応が出た慶安三年(一六五〇)の前、寺僧不在の四〇余年間の初期であるらしい。ところが、この人畜改帳の人口調査では、国分村に僧一人が居ることになっていて、寺伝と合致しない。なお、大友氏の兵火に遭った時、国分寺のほか、その境内に子院の心海、永寿、誓願、池蔵、大坊、悟庵の六坊があり、国分寺の門外には別に真乗寺と称する寺があったという(豊前国国分村の真乗寺との寺印が、現在国の重要文化財として山口市の個人のもとに所蔵されている)から、国分の丘陵全域が寺院で占められていたと思われる。天正年間というと、元和八年より三、四〇年前、国分はこの三、四〇年間に七〇棟に近い家が建ち、一五〇に近い人が住みつくようになったのであろうか。あとでふれるが、国分村は、また、農業経営者一七世帯で、三〇の役畜をもつ純粋農村になっていることなどと考え合わせると、この伝えには疑問がある。『大友の兵火で云々』の伝えは、豊前・豊後の寺伝にその例が非常に多いが、寺院の衰退や廃絶を大友宗麟の暴挙に付会したのであるかもしれない。」
 
 このほか、呰見村に寺一軒、寺僧一人の記事があるが、天明六年(一七八六)の「小倉藩寺院聚録」には寺院の記録はない。江戸時代の中ごろ廃寺か転寺になったのであろう。
 彦徳村の寺一軒、寺僧一人は吉祥院と思われる。寺伝によれば、「元徳年中(一三二九―三一)は天台宗、天正年間(一五七三―九二)以後馬ケ岳城主長野三郎左衛門祐盛の次男長野三郎祐綱が出家して吉祥院に入り、後に浄土宗に改む」とあり、天明六年(一七八六)ごろの小倉領寺院聚録に浄土宗西山派彦明山吉祥院とあり、企救郡長野観勢山護念寺末寺とし、護念寺記録に「開基年歴不知。中興北山とせり」とある。元徳の年号は誤りで元和ではないかとの説がある。とにかく元和年間(一六一五―二四)には寺はあったのであろう。
 有久村には寺一軒の記録はあるが、寺僧の記録はない。寺の建物はあるが、寺僧を失って実質的には寺としては滅亡に瀕していたのであろう。農民の生活の貧困によるものではなかろうか。