月々の金を持って使の者が来るころであった。賢太郎は、その金が来たら、何か見舞の品物買って浅原の所へ行かうと思った。その一週間が過ぎた。浅原からの手紙が達いた。金は来なかった。下宿料を払ふ時になってゐた。
彼は、浅原の手紙を読むと、決心して、○――先生に金を借りた。先生も浅原の見舞に行かふと云った。
二人は、その日古風な乗会馬車で町へ出掛けた。
「早く卒業して終ふんだね・・・・・・」と先生は賢太郎に云った。「こんな馬車のある田舎から出て行かなければならないよ。僕は、誰にも同じことを云ふ訳ぢゃない。君や浅原はさうした方がいゝんだ。只だ惜しいことに浅原は体が弱い。」
「浅原が健康だったら、猛烈な×××[革命家]になるでしょうねえ。」と賢太郎は云った。
「全く全く惜しいなア。併しねえ、そんな仮定は感情的には成り立つけれど決して科学的ぢゃないよ。小ブルヂョアは、健康でないとか家庭的な不運とか云ふものがなければ、××[革命]運動に加はることは稀だしよし又加はるにしても弱いものなんだからなア。意識を決定するのは環境だと云ふのは全く真実だ。」
賢太郎は、先生が矢張り家庭的な不運を持ってゐるのではあるまいかと思った。
浅原は、教会と並んだ牧師館の二階に寝てゐた。二週間逢はなかった間に、友人の顔が全く衰えたのを二人は見た。
「血を喀きましたよ。はは!」と浅原は云って笑った。「馬鹿に痩せたでしょう?これ、肋骨が格子見たいな音を立てるでしょう。ははは!」
「早く治って、又学校に出て来て呉れ給へ――」と賢太郎は心から云った。
彼は、浅原に云ひ難い友愛を強く感じた。これは、彼の浅原に対する全く新しい感情であった。
「全くだ。君が学校に来ないと、淋しくってしょうがない。」と先生が云った。
讃美歌の合唱が起った。教会で、朝の礼拝が始ったのだ。
「大勢来てゐるのだね?」と先生は云った。
「女学生が来るのです。」と浅原は答へた。「それなもんだから、独身者の会社員だの小学校の教師だの何だのかんだのが来るんです。親父は、この調子ならこの町を救へるかも知れないなんてことを素直に考へてゐるらしいですよ。ははは!ポンチ絵ですよ。」
浅原は咳入った。咳が治ると賢太郎に云った。
「君は矢張り、君の地主の事を考へてゐるかい?」
「考へるよ。」
「僕たちは矢張り駄目だなァ――」と浅原は云った。
彼は黙り込んでゐたが、軈て続けた。
「一昨日、SやKやH達(研究会のメムバー)が見舞に来て呉れましたよ先生。」
「さうかい。」
「あの連中は、僕達とは全で違いますねえ。」
「どう云ふ風にだね?」
「先生。あの連中は何と云ったってプロレタリアに近いですよ。少なくとも僕達よりはずっとずっとね。」と浅原は静かな調子で云った。「僕達はさうぢゃない。小ブルヂョアです。彼奴等ア僕達とはまるで血が違ふと云ふ気がします。僕は床の中ではっきりとそれを発見しましたよ。きっと、彼奴等は死ぬまで一つの我道をごとごと走って行くでしょう。物判りが悪かったり、感が鈍かったりそれアするでしょう。併し、そんな事は問題ぢゃありません。彼奴等が物事が判ると云ふともう決して忘れやしない。彼奴等は、全身で知るのです。所が僕達は、只だ頭の片隅で物判りがよく話が早いだけなんです。」
「そればかりぢゃありません。僕達は、始終焦々してゐます。そのくせともすれば、かうあらねばならぬと云ふ風な理想的な状態に考へふけって、自分は、相変らぬ不徹底で愚劣な生活に沈んで行くのです。相手の気持が気になって仕様がありません。心の中で肯定したり否定したりする、馬鹿々々しい程善悪で事を批判したり、見えを張らうとしたり、自らのやることを何か余程壮勇な事のやうに考へたり全く忙しいことです。そんな緊張がどうして永い時間続けられるでしょう。僕達は、正直に云へば、虚無主義者かも知れませんねえ。――」
先生も賢太郎も、黙って浅原の生真面目な話を聞いてゐた。賢太郎は溜息をつきながら、浅原の蒼い頬に血がさして来るのを見た。
「プロレタリアートはやがて×[勝]つ――と僕達は信じてゐます。」と浅原は続けた。「『万歳!』と僕達はプロレタリアートの為めに、合唱するのです。実際心からするのです。併し同時に、何てこってしょう、自らがプロレタリアでないと云ふことで無限の淋しさを感じるのです。そんな馬鹿なことをと反対する者があるかも知れません。僕達は小ブルヂョアの子供だが、それは固定的なものぢゃない、段々にプロレタリアの血を体に持つやうになる、と誰でも云ひます。云ふことは誰にだって出来るのですがねえ!」
「云ふばかりではなく、実際やって行かなければならないよ!」と賢太郎は、ひどく吃って云った。
すると、突然、浅原は口を噤んで、放心したやうに瞬きばかりし続けた。
帰りの馬車の中で、先生は賢太郎に云った。
「どうかして浅原を健康な体にし度いなア・・・・・・。」
「先生、浅原が云った事をどうお思ひになりますか?」と賢太郎は云った。
「君はどう思ふかい?」と先生は云った。
「矢張り浅原は間違ってゐると思ひます。自らをあんなに解剖するのは良いことかも知れませんが、あんな風に虐待してはならないと思ひます。」
先生は、黙りこんで何もその事に就いては口を開かなかった。
馬車が、橋を渡った。村の家が林の中に見え出した。先生は賢太郎にかう云った。
「僕達は訣れなければならないよ。間もなくね・・・・・・!」
賢太郎は、先生の意味を探ろうと体を堅くして云った。
「先生!どうしてですか?」
「××[警察]が、僕達の研究会を打っ潰しに来るまえに、僕達は研究会を解散して終はう。君達は、騒がないで穏しくして居なければならない。兎に角中学を卒業した方がいゝんだからね。明日集らう。そして打合せをしよう。」