校長は、その後数度、賢太郎の家へやって来た。
賢太郎は、保護者の厳命を無視して、中学校へ出て行ったが、彼の一切の荷物は下宿にはなかった。彼は友人の下宿に転々とした。
彼は無一文であった。どうすることも出来なかった。
彼と先生とが二度目に浅原を見舞った日から三日目に、浅原の手紙が来た。彼はいきなり蒼白になった。遺書であった。彼は鉄道自殺を遂げたのである。滅茶苦茶な悲哀と憤激とが、賢太郎を狂人のやうにした。
或る晩のこと、賢太郎は保護者の家に帰って来た。
彼は高い石段を登り終へた時、俄かに悲しみに襲はれた。彼は歯を食いしばって泣いた。
『浅原!浅原!』と彼は切れ々々に云った。『お前を殺した奴を――浅原!仇を討ってやるよ!』
彼は、玄関をどんどん叩いた。
「誰だ?」と保護者の声がした。
彼は猶も叩き続けた。戸を開けるまでは叩き続けようと思った。年寄の下男がくぐり戸を開けた。
「何しに帰って来た!恩知らず!社会主義に用はないぞ!」と地主は叫んだ。
賢太郎は、かっとなった。彼はくぐり戸の突っかい棒を掴むや否や一撃を食はした。
「貴様は、俺を打ったな!」
「何しなさる!坊っち〈ゃ〉ん!」と下男は賢太郎の脇を捕えようとした。此方は、下男を押しやって、又も打ってかゝった。
保護者は奥の間に逃げ出して行った。
息子は靴のまま畳に飛び上って追っかけた。そして、佛壇の間に遂つめて終った。佛壇には小さい蝋燭がともってゐた。賢太郎は滅茶苦茶に棒を振りまはした。地主は悲鳴をあげながら叫んだ。
「恩知らず!痛い!人殺し!」
「貴様こそ人×[殺]だ!こん畜生、こん畜生、こーん畜生!」
「嘉平!お米!来てくれ!早く駐在所(巡査のこと)を呼んで来て呉れ!助けて呉れ!人殺し!気狂ひ!」
『お米?駐在所?気が狂った?』と賢太郎は殴りつづけながら思った。『お米?それが情婦か、ふん、巡査――それア貴様達の××[番犬]だ!俺は気が狂ったのかも知れない。』
殴って殴って殴りつゞけた。
相手が静かになったのに気がついた。
「えい、このブルヂョア奴!」と賢太郎は叫んで棒を投りつけた。
彼は、お米や嘉平爺さんがわなわな震えてゐる前を通って外へ出て行った。柴折戸を押倒して塵泥の庭を横切った。彼は土塀を跨ぐと、暫くそこに腰をかけてゐた。
彼は唾液を吐いた。そしてゆっくり身を起した。彼は跳んだ。真暗な深さ二十呎の闇が彼を吸ひ入れた。
彼は、地べたに身をぶつつけて、両脚が砕ける瞬間意識を失った。彼は最後の意識で、『浅原!俺も死ぬ!』そして同時に『失策(しま)った!』と思った。
――――――
田舎新聞のみならず、東京の新聞にも、この騒動の記事が載った。更らに、一週間の後には『中学校英語教師が××[共産]主義の宣伝』の大きな記事が全国の新聞に書き立てられた。○――先生は検挙されたのである。五名の学生も訊問された。田舎新聞には、同時に『某中学校長は稀代の色魔』と云ふ記事も出たが、大した反響を喚起することはなかった。
余計なことかも知れないが、次のことを書き添えて置かう。
賢太郎の保護者は、一ヶ月経たぬうちに元通りの体になった。こんな男に限って悪運が強いものである。賢太郎は息を吹き返へしたが両脚は切断しなければならぬ大骨折であった。彼の二本の脚は村医者によってくるぶしの上から断りとられた。そして死んだ。
(完)