明治17年 | 1884 | 3月7日福岡県仲津郡久富村(現犀川町久富)で生まれる。 |
明治20年 | 1887 | 父・弥三郎の転勤にともない大和郡山へ移る。 |
明治24年 | 1891 | 帰郷し、豊津尋常小学校に転校。 |
明治27年 | 1894 | 5月22日父・弥三郎死去。 |
明治30年 | 1897 | 豊津高等小学校卒業。福岡県立尋常中学校に入学。 |
明治35年 | 1902 | 豊津中学校卒業。7月に第一高等学校入学。 |
明治38年 | 1905 | 7月第一高等学校卒業。9月東京帝国大学文学部独文科に入学。従兄の犬塚武夫の紹介で夏目漱石の知遇を得、在学中の保証人を依頼する。大学ではドイツ語の講義とともに、漱石の「文学評論」やシェイクスピアの講義も聴講する。 |
明治41年 | 1908 | 7月東京帝国大学卒業。 |
明治42年 | 1909 | 4月慶応義塾大学に文学部が創設され、講師となる。このころから、ロシア文学への興味が深まる。朝日新聞に文芸欄が創設され、漱石の手伝いをする。 |
明治44年 | 1911 | 1月郷里にて結婚。 |
大正5年 | 1916 | 東京医学専門学校講師となる。12月9日夏目漱石死去。 |
大正6年 | 1917 | 「漱石全集」の編集にとりかかる。 |
大正9年 | 1920 | 海軍大学校嘱託教授となる。 |
大正10年 | 1921 | 芭蕉研究会に参加。 |
大正11年 | 1922 | 4月法政大学教授となる。東北帝国大学法文学部独文講座を引き受ける。 |
大正12年 | 1923 | 3月渡欧。5月にベルリンに到着し、以後欧州各国を歴訪。 |
大正13年 | 1924 | 帰国。東北帝国大学教授となる。 |
大正15年 | 1926 | 芭蕉俳諧研究会を始める。 |
昭和21年 | 1946 | 東京音楽学校(現東京芸術大学)校長となる。教育刷新委員・国語審議会委員となる。 |
昭和22年 | 1947 | 6月都民劇場運営委員長となる。 |
昭和23年 | 1948 | 11月東北帝国大学名誉教授の称号を贈られる。 |
昭和24年 | 1949 | 6月東京音楽学校々長辞職。東京女子大学講師・俳文学会々長となる。 |
昭和25年 | 1950 | 4月学習院大学教授となる。以降、学習院では文学部長・女子短期大学々長をつとめる。12月文化財専門審議会専門委員となる。 |
昭和26年 | 1951 | 10月学士院会員となる。 |
昭和29年 | 1954 | 5月著書「夏目漱石」で芸術院賞受賞。 |
昭和30年 | 1955 | 4月財団法人都民劇場会長。7月国立劇場設立準備協議会々長を委嘱される。 |
昭和32年 | 1957 | 3月学習院退職。4月東京都教育委員となる。 |
昭和33年 | 1958 | 「世阿弥の芸術」を御進講する。 |
昭和34年 | 1959 | 東京都教育委員辞任。 |
昭和35年 | 1960 | 東大病院に入院。手術を受ける。 |
昭和36年 | 1961 | 喜寿・金婚式。 |
昭和40年 | 1965 | 3月都民劇場会長辞任。同名誉会長となる。 |
昭和41年 | 1966 | 5月3日午前4時、肺炎のため東京都杉並区の自宅にて逝去。享年82歳。東京南多摩霊園と豊津町峯高寺に分骨埋葬。 |
|
|
(「篷里雨句集」巻末年譜及び小宮里子氏のご教示により作成) |