一万年前より前の時代を地質学では、更新世(こうしんせい)と呼ばれる。海底に堆積している土の酸素同位体(どういたい)の分析により最近では、約七〇万年間の気温の変動が細かく分かるようになってきたが、それによると更新世は氷河期(ひょうがき)と間氷期(かんぴょうき)が周期的に繰り返される、気候の変動が激しい時代であったとされている。このことは言い換えれば、暖かい時期には日本列島の多くの地域が海底に沈み、寒い氷河期には列島が大陸と地続きとなっていた、ということを意味している。つまり、暖かい時期の関東平野は、宮代町を含む、ほとんどの地域が海の底であったということであり、この時期の遺跡が発見される可能性はほとんどありえないと言うことでもある。
宮代町での最初の人類の痕跡はおおよそ二万年前にさかのぼると考えられるが、その時期はちょうど更新世の最後の氷河期に当たっていた。この時期はもちろん寒冷であったが、火山活動の活発な時期でもあった。約二万七〇〇〇年前に大噴火した鹿児島湾(今の錦江湾(きんこうわん))にあったとされる姶良(あいら)山の火山灰は、地元鹿児島では約百メートル以上の堆積を示し、遠く関東や東北地方にまでも降り注ぎ、韓(かん)半島やシベリアにも降っていたことが分かってきている。さらに、関東平野では富士山や箱根の山々の火山灰が厚く堆積しており一般的に関東ローム層と総称されている。
その頃の宮代町周辺の景観はどのようであったろうか。現在の宮代町は、台地と低地の標高差が少なく、せいぜい二~三メートルを測るに過ぎないが、当時の中川低地は河川の開析が進んでおり、今の面よりも六〇メートル以上も深い渓谷(けいこく)となっていたことが分かっている。荒川低地も同様であった。宮代町を含む、当時の大宮台地は、河川側から見ると屏風(びょうぶ)のように高くそそり立った景観を示していたのである。そして最終氷期の海は、現在よりも百メートル以上も沖へと後退しており、現在の東京湾は広大な低地となっていたのである。
気温は今より年平均で七~八度も低く、現在の北海道並と言える。花粉分析や珪藻(けいそう)分析などから、山地や丘陵には亜寒帯針葉樹林が生育し、平野部の内低地から台地にかけての斜面部にはケヤキやナラの木が生える落葉広葉樹が発達し、台地上の平坦な部分は木が少なく草原が広がっていたようである。