一方で、ある時人間は「土器」を発明した。土(粘土)で形を作り、整え、さらに六〇〇~七〇〇度ほどの火で焼き上げたもの、土の化学変化を利用したいわゆる「土器」を作るようになったのである。それは、一度焼き上げると元に戻ることはなく、水を溜(た)めることができる、そして形や大きさも自由に作れるという特性をもっていた。日本では、今からおよそ一万二〇〇〇年前、氷河期も終焉を迎え、気候も温暖化してきた頃、初めてこの土器を手に入れたのである。いよいよ縄文時代の開幕である。
この時期の土器は、町内では前原遺跡から七点発見されている。非常に細い粘土紐を貼り付けたいわゆる微隆起線文(びりゅうきせんもん)が施され褐色をした薄手の土器である。おおむね口径二〇数センチの大きさかと思われ、口縁(こうえん)から緩(ゆる)やかに丸底へと至る。さらに、少し時代は新しくなるが、土器の表裏に縄文の施された土器も出土している。いずれも、台地の先端部付近から発見されている。
1-10 前原遺跡出土の縄文草創期の微隆起線文土器
こうした草創期(そうそうき)の土器は、前原遺跡の土器のように全体的に小型で口縁部に僅(わず)かに細い隆起線を施したもの(隆起線文土器)や、爪状の文様が施されたもの(爪形文(つめがたもん)系土器)、縄文の施されたもの(多縄文系土器)、豆粒状の貼り付けを持つ土器(豆粒文(とうりゅうもん)土器)などがあるが、概して装飾の少ないものであった。いずれにしろ、日本でも最古の部類に属する土器の発見によって、約一万二〇〇〇年前の人々の暮らしを探る契機となったのである。
この頃の県内遺跡では、花園町宮林遺跡、滑川町打越(おっこし)遺跡が著名であり、住居跡とも考えられる竪穴(たてあな)状遺構やそれに伴う爪形文土器・多縄文系土器等が発掘されているが、一方で秩父市橋立岩陰(はしだていわかげ)、大滝村神庭(かにわ)洞窟などにも生活の跡が見られるなど、旧石器時代的な要素を残しつつ新たな時代へと次第に変わっていった様子が確認されつつある。大宮台地においては、上尾市十二番耕地遺跡、さいたま市大丸山遺跡、同えんぎ山遺跡等で前原遺跡と同時期の土器が発見されているが、大宮台地東部の中川流域では草創期の土器の発見はほとんどない。前原遺跡の情報がますます重視されるゆえんである。
1-11 縄文草創期の竪穴状遺構
(宮林遺跡 埼玉県立埋蔵文化財センター提供)