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前原遺跡の磨製石斧

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前原遺跡の磨製石斧は、ほとんどが片刃であり、両刃のものは極めて少ない。つまりほとんどが手斧のように用いられていたということを意味するのである。この磨製石斧はさらに二者に分けられる。一つは自然石(礫(れき))を砥石などで磨いて刃を付けたもの、もう一つは原石から剥ぎとった石のかけらを整形してその一部を磨いたものである。しかし、磨製石斧の製作工程から見ると、両者間の差異はさほど大きくはない。例えばその製作工程は、①素材の石を得る、②石を剥離(はくり)する、③剥離した石を敲打(こうだ)し形を整える、④形を整えたものを研磨(けんま)し整形するという順が一般的であるが、②③を省略可能な石材があれば①から直接④に至ることになる。まさに前者の磨製石斧であろう。しかし実際には、刃部だけを磨いた局部磨製石斧では①、②、④、全体に研磨された磨製石斧では①、③、④の工程順で作られているのである。なお、これらの磨製石斧はいずれも礫から直接製品化されたものが多いことから礫石斧(れきせきふ)とも呼ばれることがある。大きさも一〇センチを超えるものは少なく全体に小型のものがほとんどである。
 次に、刃部の平面形状に焦点を合わせてみよう。刃先が丸みをもった円刃(えんじん)と、刃先が直線的な直刃(ちょくじん)の両者があり、局部磨製石斧ではそれぞれが同数であるが、磨製石斧では直刃が多い。刃部の断面から見ると、片刃がほとんどで、両刃は極めて少ないという点はすでに述べた。また、石斧の使用形態をうかがわせる刃部の使用痕跡(こんせき)は、斜め、もしくは横への線状痕(せんじょうこん)として残されているのみならず、刃部の表裏一方が欠けているものが多い。これは磨製石斧も局部磨製石斧も同様である。こうした点を総合的に勘案すると、横斧(よこおの)(手斧)的な用法が想定される。つまりこれらの磨製石斧は木を伐採することが主ではなく、むしろ木工具として用いられたのであった。

1-20 前原遺跡出土局部磨製石斧

 それでは、こうした多量の木工具の存在は何を意味しているのであろうか。縄文時代早期初頭からこうした傾向はうかがわれるが、その頃から本格的な竪穴(たてあな)住居が建てられはじめたり、一定の広場を持った集落が営まれだしたという事実とも関係があるのかも知れない。いずれにしろそうした木製品への関心とその加工技術がある程度完成していたということかも知れない。しかし、前原遺跡で多量に見られたタイプの磨製石斧はまもなく姿を消してしまう。縄文時代前期頃からは本格的な木材伐採用の斧である乳棒(にゅうぼう)状磨製石斧が出現し主流を占めるようになる。さらに後期になると石斧の両側の縁や頭部を研磨し定型的に整えた定角(じょうかく)磨製石斧が数多く出土するようになる。これは大小さまざまな形態があり、木工のさまざまな場面で使われたようである。なお、前原遺跡では磨製石斧の研磨に用いられたと思われる砂岩製の砥石が三三点も出土している。磨製石斧の製作作業が遺跡内で行われていたのである。
 いずれにしろ、磨製石斧も打製石斧も縄文時代の主要な道具であった。石斧は、森と共に暮らす縄文人にとってかけがえのない道具なのである。樹木の伐採・加工、住居の建築、木製品の製作などには磨かれた石斧が活躍したことであろう。一方、竪穴住居を掘ったり、球根などを掘り起こすための道具としては、打製石斧の役割が大きかったに違いない。必要は発明の母といわれるが、その要請に応じてさまざまな機能に即応できるような各種の道具が生み出され、時代と地域を通じてその消長が繰り返されてきたのである。
 なお、近年は泥炭層遺跡から石斧の柄が発掘されるようになり、想像ではなく具体的なイメージを描くことができるようになった。特に福井県鳥浜貝塚での縦斧(たておの)用の柄の発見はセンセーショナルでさえあった。まさに想像していたとおりの柄だったのであるから。