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縄文海進(じょうもんかいしん)

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今からおよそ一万八〇〇〇年前、地球は最後の氷河期ビュルム氷期の最盛期にあった。世界中が氷河に覆われ、多量の水分が南極、北極あるいは山岳地帯に氷として閉じ込められていた。日本列島付近の海面はおよそ八〇~一四〇メートルも低下し、一部大陸と地続きとなったところもあったと考えられている。現在、北海道や中部山岳地帯に残されている氷河地形は、このころに形成されたものであろう。その後、気候は温暖化と寒冷化を繰り返しながらも、相対的には温暖化の方向をたどることとなる。その結果、極地に閉じ込められていた氷が溶け始め、およそ一万五〇〇〇年前からは、急激に海水面が上昇を始めたものと考えられている。海水面の上昇は当然のことながら海の面積を増やすこととなり、それまで陸地であったところが海面下に没することとなり、日本列島は大陸から完全に切り離されたのである。
 海水面の変動現象は、まさに寄せ来る波のように、上昇と下降を繰り返しながら進行し、日本列島が最も温暖化したといわれる、今からおよそ六〇〇〇~五〇〇〇年前に当たる、縄文時代前期の中ごろに最高潮を迎えるに至る。縄文人の生活環境に大きな変化をもたらしたであろう、この海水面の変動現象を縄文海進と呼んでいる。
 当時の海水面は現在よりも二~三メートルほど高かったと推定されており、現在の埼玉県周辺では、中川低地や荒川流域にそって内陸深くまで海が入り込み、奥東京湾と呼ばれる内湾が形成されていた。特に、古利根川を含む中川流域の海進は大規模なもので、現在の栃木県藤岡町付近にまで及んでいたと考えられている。

1-21 海岸線の推定図

 埼玉県内に残された貝塚には二つの時間的ピークがあり、一つはこの縄文海進最盛期に位置付けられる縄文時代前期に形成されたもので、杉戸町の目沼貝塚や木津内(きづうち)貝塚、蓮田市黒浜貝塚群、関山(せきやま)貝塚などがこれに当たる。もう一つは今からおよそ三〇〇〇年前の縄文時代後期である。岩槻市真福寺(しんぷくじ)貝塚や庄和町神明(しんめい)貝塚、松伏町栄光院(えいこういん)貝塚などが挙げられる。宮代町内に残されている唯一の貝塚である西光院(さいこういん)貝塚は、このころ形成された貝塚であることが知られている。