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縄文人の携えていた道具

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わが国に金属器がもたらされたのは、弥生時代になってからのことである。それ以前、すなわち旧石器時代から縄文時代に暮らした人々は、専ら石でできた道具、石器を使用していたと考えられてきた。しかし、当時の人々は石器以外にも、動物の骨や角(つの)、牙(きば)などを素材とした骨角器や、木で作った木器などをはじめとして、自然界に存在するあらゆる素材を道具として加工し、使っていたとみるべきであろう。ただ、骨角器や木器などの有機質素材のものは腐食しやすく、貝塚や洞窟遺跡、泥炭層遺跡など好条件に恵まれたごく一部の遺跡以外では、検出される例は極めて少数である。これに比べて、石器は一部の風化しやすい石材を除けば、ほぼ当時のままの状態で残されていることから、縄文時代の道具の代表として扱われて、石器が当時の唯一の道具であるかのように思われる傾向が強い。ただ、石器がその堅牢(けんろう)さや鋭利さの点で秀でており、当時の人々が最も利用した道具であることはまぎれもない事実である。石器の加工技術や機能は各時代や地域性を反映したものが多く、当時の人々の技術水準や文化内容を理解する上で、土器と並んで考古学上大きな位置を占めているといえる。
 石器は、その特徴的な形状などと相まって古くから注目されてきた。特に石鏃、石匙(いしさじ)などの石器は、「矢の根石」、「天狗の飯匙」などと呼ばれて親しまれてきた歴史をもつ。
 縄文時代の遺跡から発見される主だった石器には、石鏃(せきぞく)、石槍、石匙、石錐、打製石斧、磨製石斧、石皿、磨石、凹石(くぼみいし)、敲石(たたきいし)、石錘(せきすい)などが挙げられる。これらは、長い縄文時代の中のそれぞれの時期で、あるいは地域によって少しずつ変化している。例えば石の鏃(やじり)である石鏃は、矢(や)の柄(え)に装着する方法などによって、中茎(なかご)のあるものとないものに大別でき、中茎のないものはさらに、基部のまっすぐな三角形のものと、基部に抉り込みを持つものに細別される。打製石斧は、斧ではなくシャベルのような土掘り具と考えられるが、その形状から撥形、分銅形、短冊形などに分類でき、柄の付け方にも違いがあったと考えられている。石匙は動物を解体したり、肉を切ったりするナイフの役目をした道具だが、縦長のものと横長のものの二大別が可能である。しかし、このナイフのような使われ方をした石器には、実は定型的な形を持たない石器がたくさんある。石鏃や石匙、石槍などの利器は、天然ガラスである黒曜石やチャートなどの珪酸質の高い石を素材とすることが多い。これらの石器は母岩(ぼがん)から薄い剥片を剥がし、これを加工して作るのだが、この過程でできる剥片のうち、鋭利な縁辺を持つ剥片をそのまま使用したり、僅(わず)かな調整加工を施しただけの利器が数多く見られる。むしろそのほうが多いくらいである。

1-28 石器と現在の道具

 宮代町内では、県選定重要遺跡の山崎北遺跡(現山崎遺跡)と国納丸屋(こくのうまるや)遺跡から、いずれも縄文時代早期の石器製作跡とみられる遺構が見つかっている。山崎北遺跡では、昭和五十年(一九七五)の発掘調査で、台地の北側縁辺の約二メートル四方ほどの範囲から、石核一点と五〇片を上回る剥片、石鏃四点、スクレイパー一点が検出されている。また、国納丸屋遺跡では、平成九年(一九九七)の発掘調査で検出された縄文時代早期後半の住居跡から、黒曜石を中心として実に八〇〇片を超える剥片と石鏃一点が出土している。山崎北遺跡の例は、狩りに使う石鏃を今まさに仕上げようとしていたところのように思える。また、国納丸屋遺跡の例は、残された剥片の数からすると、もっとたくさんの石器を作り、それを携えてどこかへ既に移動した後の状況のようだ。いずれにしても、縄文時代の石器製作については、未解明の部分が多くあることを考えると、宮代町での二例は、今後大いに注目されるべき好個の事例といえよう。

1-29 国納丸屋遺跡出土石鏃と剥片