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縄文人の食糧と道具

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縄文人の食糧とのかかわりから道具について考えてみよう。極めて大雑把な分け方ではあるが、われわれが日常口にする食糧は、大きく動物質のものと植物質のものとに分けてとらえることができる。縄文人もその両方を食糧としていたと仮定し、彼らの残した道具をもう一度見直してみよう。
 まず、動物質の食糧を得る方法として思い浮かぶのは、狩猟・漁労である。縄文人が狩猟に使った道具としては前述のとおり、石鏃、石槍などの刺突具や、動物を解体したり肉を切り分けたり、皮をなめしたりするための石匙やこれに類するナイフのような石器などが挙げられる。また漁労具として、鹿の角で作った釣針や動物の骨で作った銛(もり)、ヤス、魚網の錘(おもり)である石錘(せきすい)、土錘(どすい)、土器片錘(どきへんすい)、軽石製の浮子(うき)などがある。宮代町内では骨角器は検出されていないが、土器片錘、軽石製の浮子などが、前原遺跡や金原遺跡などから見つかっている。土器片錘とは、土器のかけらを長方形ないし楕円形に整形し、その両側あるいは四辺に切り込みをいれて縛り付けられるようにしたもので、縄文時代中期から後期にかけて多くみられる。縄文時代前期、中川水系では、栃木県藤岡町あたりまで入り込んでいた海は、この時期、現在のさいたま市から川口市辺りまで退いていたものと思われるため、宮代町周辺では、川を舞台とした漁労活動が想定される。縄文時代後期に比定される西光院貝塚の存在は、彼らの積極的な漁労活動を裏付ける証拠といえよう。

1-30 土器片錘の使用方法

 次に、植物質の食糧を得る方法としては、採集を考えておこう。木の実や蔬菜(そさい)類、芋などの根茎(こんけい)類である。打製石斧がシャベルのような土掘り具であったことは既に述べた。まっすぐ伸びた木の棒の先につけた打製石斧は、突き刺しながら地面を掘る道具として適している。ヤマイモなどの根茎類を掘り出すことは充分に可能である。木の実はどうだろうか。ヤマブドウやキイチゴなどの果実を摘むには道具は必要なかっただろうし、クリやクルミを拾い集めるにも特別な道具は存在しなかったと思われる。草木の芽や葉についても同様だろう。植物質の食料は、採集すること自体は動物質のそれを手に入れることに比べれば、はるかに簡単だし、大量に採集できたはずである。しかし、蔬菜類や果実は、主食とはなりにくいし、季節的な制約があり常時採集することは困難であったはずである。それに比べるとクリ、クルミなどの堅果(けんか)類は秋に大量に採集しておけば、ある程度保存もでき、主食となり得るのである。
 実際に縄文時代の遺跡から見つかる石器を注意して見てみると、どうやらこれらの堅果類を加工したと思われる道具が、狩猟具、漁労具を上回る量で出土していることに気付く。磨石、石皿、凹石、敲石(たたきいし)などの石器群がそれである。では、それらの石器は、どのような使われ方をしたのだろうか。
 かつて、豆や米などの穀(こく)類を粉に挽(ひ)く道具として石臼が使われていた。現在でも、そば粉を石臼で挽くそば屋があるが、磨石、石皿は石臼と同じく製粉具と考えられる。縄文人は、コナラ、ミズナラ、シイ、カシ、クリ、トチ、ブナ、クルミなどの堅果類を粉に挽き、パンやクッキーのようにして食べていたようである。凹石と敲石は、これらの堅果類の殼を割るための道具と考えられる。
 大量採集でき、保存が利き、主食となり得る、いいことずくめと思われる堅果類にも、実は大きな欠点が存在した。コナラ、ミズナラ、トチなどやシイ、カシの一部にはアクがありそのままでは食べることができないのである。しかし縄文人は、水にさらしたり、灰で中和するなどしてその欠点を克服したのである。
 縄文時代の遺跡から出土する石鏃や石槍、石匙などの石器から、彼らは専ら狩猟、漁労を中心として食糧を調達し、彼らの食卓はいつも肉や魚で満たされていたと考えられがちであるが、決してそうではないようである。確かに、縄文人は狩猟、漁労を積極的に行う生活を送っていたと思われるが、彼らの食卓に並ぶメニューは、むしろ植物性の食材が主で動物性のそれが従と考えたほうがよさそうである。