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竪穴住居の初発見

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昭和五十一年(一九七六)八月、町内で初めて縄文時代の住居跡が発見された。遺跡名は星谷(ほしや)遺跡。当時ここには西原グランドの建設が計画され、その造成工事が進んでいる最中のことであった(現在の勤労者体育センター)。土器のかけらがぱらぱらと散っている所を鋤簾(じょれん)で平らに削ると、柱を建てた穴(柱穴)や火を焚(た)いた跡(炉跡)が現れてきた。さらに精査すると、柱穴は直径六メートルほどの環状に連なり、その北北西には入口部を示す一対の長楕円形の穴が見つかった。したがって、炉跡はこの環状の中央部からやや入口部に寄って検出されたことになる。だが、削平(さくへい)は住居跡の床面にまで及んでおり壁の確認はできなかった。しかし、同時期(後期前葉の堀ノ内2式期)で類似した構造の住居跡が久喜市光明寺(こうみょうじ)南遺跡から発見されており、この住居跡が地面を掘り窪めた竪穴住居跡であったことをよく示している。
 それではこの住居跡の上屋(うわや)はどうなっていたのだろうか。考えられるタイプとしては、伏屋式(ふせやしき)と壁立式(かべたちしき)の二者がある。伏屋式とは、郷土資料館の庭に復元されているような、屋根が直接地面にまで葺きおろされている形式のものをいう。かつては縄文時代の住居はすべてがこのタイプであろうと思われていた。しかし、現在の住居のように壁を巡らす構造の住居跡(このタイプを壁立式という)が山形県高畠(たかはた)町の押出(おんだし)遺跡や栃木県宇都宮市の根古屋台(ねごやだい)遺跡(いずれも縄文時代前期前葉)などで発見されるに及び、縄文時代の住居構造についての再検討が必要となった。その結果、壁立式は主に日本海沿岸地方に特徴的な住居形式として成立したことが判明しつつあり、中期末から後期にかけて、東北・関東の両地方は全般的に壁立式の竪穴住居に席巻(せっけん)されるようになったといわれている。その中期末ごろの関東地方は、ちょうど気候の冷涼化が目立ち始め、ムラ人の動揺が激しくなった時期に一致している。偶然だろうか。
 さて、ここで星谷遺跡の住居跡(後期前葉)をもう一度みてみよう。ぐるりと連なるように巡らされていた柱穴は、壁を立てるために必要な装置であったことが分かる。星谷遺跡の例はまさに壁立式竪穴住居だったのである。
 町内では星谷遺跡での発見以後、各地で発掘調査の実施例が増え、現在までに数十軒の住居跡が確認されている。時期的にも草創期から後期にまでわたっており、ようやく家の移り変わりを大筋で理解できるようになってきた。しかし、残念ながら後期末から弥生時代にかけての住居はいまだに発見されていない。

1-32 星谷遺跡の住居跡


1-33 伏屋式と壁立式住居