モデルとなった住居跡は、平成元年度に行われた調査の際に発掘されたもので、縦、横四・五メートル前後のやや台形をした浅い掘り込みを持つものである。四本の主柱穴があり、中央より西側に炉が造られている。こうしたことから、復元にあたっては単一家族を想定し、縄文時代前期の最も一般的な形態の住居とした。復元住居の大きさは、モデルより一回り小さく、竪穴部分で二・五×三・五メートルの大きさとし、外形で四×五メートルとした。柱の材質は、縄文時代前期の気候から温暖な地域に生息する落葉広葉樹であるコナラを用いた。柱と柱は藤つるで結び、屋根は茅葺とし、杉皮敷として、出入り具の屋根は杉皮葺きとした。さらに、竪穴住居の内壁には自然木を配し、周堤をめぐらせ復元した。
ところで、縄文時代草創期、人々は始めて住居を構えた。それ以後、連綿と住居の歴史は続く。しかし、縄文時代の住居について具体的にどのようなものであったか、朽ち果ててしまい、今となってはほとんど伺い知ることは出来ない。しかし、近年の発掘事例の増加とともに、おぼろげながら縄文時代の住居の様相が明かになってきた。青森県三内丸山遺跡の巨木建造物の存在や、日本最古の建築といわれていた法隆寺五重の塔をはるかにさかのぼる縄文時代に同様の建築技術があったことを裏付けた富山県桜町遺跡の仕口の加工された住居跡の発見は、縄文時代の建築技術の高さを如実に物語っている。
資料館の復元住居もそうした観点から考えていくとはたしてどのようなものであったのであろうか。改めて問われる時が近い。
1-41 宮代町郷土資料館の復元住居