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コラム 弥生時代中期の水田跡の発見―北島遺跡―

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 平成十六年開催予定の国民体育大会のメイン会場建設予定地内(北島遺跡)から予想を大きく上回る重要な発見が相次いだ。その一つに弥生時代中期後半の水田跡がある。
 北島遺跡においては過去の調査で弥生中期初頭前後頃の土器や小さな竪穴が発見されてはいたが、今回の調査では平成十一年度末現在で、弥生時代中期後半から後期にかけての住居跡四四軒、弥生時代中期後半の水田跡八八筆が検出され注目された。一枚の水田区画の大きさは長辺八~一〇メートル、短辺五~八メートル程であった。現時点では埼玉県最古の水田跡であり、関東地方全体でも最古級であることは間違いない。さらにここからは、水田に水を引くための用水路かと思われる幅一〇メートル、深さ二メートルにも及ぶ大きな溝跡や、水のコントロールをするための堰のような木組の遺構も残されていた。そして、水田跡の中には西北西から東南東方向へと伸びる大きな畦道もあり、その東方約一キロの延長上には池上遺跡・小敷田(こしきだ)遺跡というほぼ同時期の弥生時代のムラが所在しているが偶然であろうか。なお、北島遺跡の住居群は調査区北寄りの微高地上に造られ、水田跡は南の低地部に広がりをみせているようであった。
 宮代町においてはいつごろから農耕が行われるようになったのだろうか。北島遺跡の水田関係遺構などから、山崎山遺跡やその周辺の集落跡が形成される古墳時代前期頃には農耕生活がはじまっていたと考えておきたいのだが…。
 なお、最近庄和町須釜遺跡から再葬墓が発掘されており、さらに古い段階から低地での水田農耕が始められていた可能性も考えられる。

1-44 熊谷市北島遺跡の弥生時代中期水田跡
(埼玉県立埋蔵文化財センター提供)