山崎山遺跡では鍛冶工房を含む一一軒の住居跡が発掘され、うち九軒が古墳時代の住居跡であった。若干の時間差はあるが、いずれも古墳時代前半の住居であり、三〇~四〇センチほど掘り窪めた竪穴住居で、形はいずれも方形、もしくは長方形をしたものである。おおむね中央部付近に炉(地床炉)があり、四本の主柱をもち、貯蔵穴をもっているものが一般的である。壁に添って浅い溝がめぐるものも四軒ほど認められた。また、中央部が一段低くなるいわゆる「ベッド状遺構」と呼ばれる住居も発掘されている。大きさは、大きいもので五×四メートル(推定)、五メートル四方といった住居や、四×三メートル、三メートル四方二件、二・五×三メートルなどといったもので、大きく五メートル前後のものと、三メートル前後の二種類の住居があることがうかがえる。鍛冶工房跡は二・五メートル四方の大きさであり、そのすぐ南側に二・五×三メートルの住居があり、大きさ的にも工房跡と何らかの関わりのあった施設であろうか。また、住居跡の幾つかからは多くの炭化材が床面から発掘されており、当時住居が火災にあったことも考えられる。なお、ベッド状遺構は首長クラスの家とも考えられている。実際、家形埴輪でベッドが設けられている例も知られており、一般の住居とは異なる特別な建物であった可能性がある。これを裏付けるかのように、碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)や土器の底部を蓋にした坩(かん)も壁際で出土している。
1-46 ベッド状遺構と呼ばれる住居(山崎山遺跡)
こうした集落の南端に、井戸が一基掘られている。大きさが二メートル前後、深さ二・六メートル(当時の地表面からは約三メートルの深さになると推定される)で、約二メートルほどのところに僅かなテラスを持っており、発掘時期(十月頃)ではこのテラス付近に水位があった。古墳時代の井戸は、素掘りでおそらく共同で使われたものと考えられる。また、鍛冶では多くの水を使うことから、関連した施設としても使われたのかも知れない。
また、長径二メートル、深さ四〇センチほどの長方形をした土坑も発掘されている。土坑内には火を焚いた跡があり、何に用いた施設か大変興味深い遺構である。
なお、山崎山遺跡と同様の形をもつ住居跡は地蔵院遺跡でも一軒発掘されている。一辺五メートル前後のもので、四本の主柱と貯蔵穴をもっており、この貯蔵穴から甕の一部が出土している。
さて、こうした山崎山遺跡に見られた住居と異なる形の古墳時代後半の住居跡が山崎山遺跡から東へ三〇〇メートルほど離れた山崎北遺跡で発掘されている。昭和五十年度の発掘調査によって確認されたもので、一辺四メートルの正方形で、五〇センチの掘り込みがある。山崎山遺跡の住居でみられた炉は、カマドへと変わっている。カマドは、全長一一〇センチ、高さ二〇センチを測り、東側の壁に造られ、煙道(えんどう)が設けられている。こうした住居は、山崎山遺跡から南へ二キロほど行った道仏遺跡でも数軒重なり合って発掘されている。
このように、古墳時代の住居や集落の在り方は大きく変わっており、人々の生活も変化が著しかったことも想像される。宮代町内の遺跡では確認されてはいないが日本のポンペイとも言われている黒井峯遺跡(群馬県嬬恋村)では、榛名山が大噴火し、その火山灰(軽石)に埋もれた古墳時代六世紀後半の集落が発掘されている。この集落では、土堤がめぐり屋根等の状態が分かる住居や、平地式住居、畑、掘立柱建物、そしてそれらを囲むように柴垣がめぐっていた。また、それに至る道も発掘されており、当時のムラの景観が生々しくよみがえっている。山崎北遺跡等でも黒井峯遺跡のように道沿いに屋敷や畑が広がっていたのかもしれない。
一方、六世紀代と推定される姫宮神社古墳群が、山崎山遺跡から南へ二キロほど離れた台地の先端部付近にある。山崎北遺跡、道仏遺跡の同時代の古墳であり、朝顔型の円筒埴輪も発掘されており、付近の首長を祀ったものと考えられる。また、下総台地と対峙する大宮台地の最も東部にある古墳として極めて重要な位置にある。