山崎山遺跡の各住居から赤褐色の素焼きの土器が出土している。甕(かめ)の形をしたものや壷の形をしたもの、さらに高杯、鉢、椀、坩(かん)などさまざまな形をした器が出土した。ことに、一〇号住居跡からはまとまって出土している。これらは、当時の人たちが毎日の生活の中でものを煮炊きしたり、盛ったり、蓄えたりした食器類の一部である。こうした当時の土器は、弥生時代の土器の伝統を引くもので、粘土紐を巻上げて作られており複雑な文様は全くなく薄手のもので、平窯と呼ばれる簡単な方法で八五〇度位の温度で焼かれた。こうした土器を「土師器(はじき)」と呼んでおり、古墳時代から奈良・平安時代まで長く作り続けられた。なお、この土師器という名称は、平安時代の法令集である「延喜式(えんぎしき)」によったものである。こうした土師器は地元で作られたものと考えられるが、東海地方の土器の特徴をもったものもみられ、北関東方面の土器の特徴を持ったものも出土しているなど、それらの地域との何らかの交流もうかがわれる。
一方、山崎山遺跡では出土していないが、古墳時代の後半になるとこれら素焼きの土器に混じって灰色の硬質の土器が出土する。これは「須恵器(すえき)」と呼ばれ、五世紀前半に朝鮮半島から伝えられた窖窯(こうがま)によって一〇〇〇度以上の高熱で焼かれたものである。良質の粘土を用いロクロを使って作られたもので、非常に硬く壊れにくい。道仏(どうぶつ)遺跡では、土師器とともに住居跡から発掘されている。また、山崎北遺跡などでも検出されている。これらの須恵器は、最初近畿地方の朝鮮半島から渡来した専門の工人によって作られ、後にそうした工人たちが全国に散ってそれぞれの地域で作られるようになったといわれている。
1-47 山崎山遺跡出土の土師器