平成九年(一九九七)度に調査された道仏遺跡の調査によって七軒の竪穴住居跡が確認され、それほど多いわけではないが、古墳時代後期以後の人々の生活を考える手掛かりが得られた。
出土した土器は約一五〇〇~一三〇〇年前使われた古墳時代後期のものばかりである。調査面積が約八〇平方メートルと狭かったのに、多くの住居跡が重複しているのは、この遺跡が当時の人々の生活の適地であって、親から子へ、子から孫へと世代を越えて継続的に居住していたために、二〇〇年くらいの期間にかなりたくさんの住居が繰り返し建てられた結果だと考えられる。北東側の壁にカマドを築いた方形の住居跡が多かったようだ。この遺跡は住居跡の重複が激しいのみでなく、調査面積も狭かったため、住居跡の全体が確認されていないものが多い。当時のことを考えるには出土した遺物に頼らざるを得ない。ここでは三点のことを指摘することができる。
第一に、土器の特徴についてである。土器には土師器と呼ぶ赤焼きの土器と、須恵器(すえき)と呼ぶ灰色や青色に焼けた土器がある。土師器は弥生時代以来の伝統的な作り方・焼き方で作られたものであり、窯(かま)を築かずに焚き火で焼くため赤く焼けている。須恵器は渡来人によって朝鮮半島から日本に伝えられたもので、窯を築いて還元炎(かんげんえん)で焼くために灰色や青色の硬い焼き物になる。ロクロを使って形を作るために均整のとれたきれいな器ができる。道仏遺跡においては器の厚みが分厚く、あまり上手ではない作りの土師器と、洗練された作りの須恵器が目立つ。分厚い作りの土師器は下総地域北部に特徴的であり、千葉県側では野田市から関宿町あたり、埼玉県内では松伏町から幸手市あたりに出土する。まとまった数の土器が出土しているのは、杉戸町上椿(かみつばき)遺跡・下椿(しもつばき)遺跡、松伏町前田遺跡などである。また、土器の表面に赤い顔料を塗っている土器もあるが、それらは作りがやや優れていて、表面もよく磨かれている。比企郡地域やその周辺から搬入されてきた土器が多いようである。須恵器は埼玉県内では一部の古い段階の窯跡を除くと、七世紀半ばまでは生産されていない。道仏遺跡の洗練された須恵器は、おそらく中部地方、それも愛知県・岐阜県・三重県など東海地方西部のどこかから搬入(はんにゅう)されてきた可能性がある。
1-55 道仏遺跡から出土した土師器・須恵器
(前列左側が須恵器)
第二に、石製模造品と呼ばれる遺物がある。大きさ僅(わず)か数センチのミニチュアの遺物であり、祭壇に置いたり、木の枝にくくりつけたりして、当時の神祀りに使用したらしい。剣の形を模したもの(剣形品)や鏡の形を模したもの(有孔円盤)、小さい玉(臼玉)があるが、道仏遺跡では剣形品・有孔円盤のほかに土製の玉を石製臼玉の代わりに祭祀に使っていたようだ。
1-56 道仏遺跡出土の石製模造品
第三に、土錘(どすい)と土製紡錘車(どせいぼうすいしゃ)である。土錘は小さな棒状のおもりで、川魚を獲るための網に付けられていた。紡錘車は糸を紡ぐ道具である糸車のはずみ車に当たるもので、糸を巻き取る軸棒の部分は木製だったために腐ってなくなってしまったのであろう。これらは当時の人々の生活の手掛かりになる。
1-57 道仏遺跡出土の紡錘車と土錘
これらのことから、道仏遺跡に居住した人々は、下総地方北部、特に杉戸町周辺の人々と交流があり、川沿いに作られたあまり広くない水田を耕作するとともに、川魚を獲って生計を立てていたようである。糸を紡ぐ仕事もしていたようであり、機織(はたお)りもしていたかもしれない。一年の無事と豊作・豊漁などを神に祈るため榊の枝などを使って剣形品・有孔円盤・玉を飾り立てた祭壇を作ることもあったのかもしれない。そんな生活の一部が想像される。
ところで、ほかに古墳時代後期の住居跡の確認された遺跡は、東武動物公園南方の山崎北遺跡の四軒しかないが、地蔵院遺跡・山崎遺跡・山崎山遺跡・山崎南遺跡・宿源太山遺跡・金原東遺跡からもこの時期の遺物が採集されており、姫宮神社西方の微高地にこの時期の遺跡の多くが分布していたようだ。