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住所は武蔵国埼玉郡太田郷?

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奈良・平安時代、現在の宮代町域に暮らしていた人々は、その日々をどのように過ごしていたのだろうか。本章では、この疑問に迫ってみたい。なお、奈良時代は、奈良・平城京に都が置かれた和銅三年(七一〇)から、延暦十三年(七九四)の平安京への遷都までを指し、平安時代は、それ以後、鎌倉時代までを指す。(鎌倉時代の始まりを何時にみるかについては諸説あり、治承四年(一一八〇)の源頼朝の鎌倉入りに求めるものから、寿永二年(一一八三)の頼朝の東国行政権の公認、さらには文治元年(一一八五)の守護・地頭の設置を重視するものなど、未だ決着をみていない。)
 この当時の日本は、既に中国で完成されていた律(刑法)と令(行政法)に学んで我国独自のそれを編纂(へんさん)し、これを国家の基本法典とした律令国家であった。現在の宮代町域に暮らしていた人々も、意識するしないにかかわらず、その支配の下に暮らすことになったのである。全国は行政的に国―郡―里(この「里」は霊亀(れいき)元年(七一五)ころ、さらに「郷」と「里」に細分されたが、天平十一年(七三九)頃には「郷」に一本化される)に区分されていたが、当時の宮代町域は、武蔵国と下総国との国境であった旧利根川(古利根川)~旧隅田川(中川)水系を東の境界に、また旧荒川(上流域…荒川~中流域…元荒川~下流域…綾瀬川)水系を西の境界としていたものと思われ、中世以降の土地の帰属関係からみて武蔵国埼玉郡の一部であったと考えられている。次節で詳述するように、古代においては複数の河川が文字どおり網の目状に流れていたと思われる当該地域では、かつての郡域を現在の行政区分に置き換えることは困難を極めるが、おおむね現在の熊谷市の一部・行田市域・羽生市域・加須市域・大利根町域・鷲宮町域・久喜市域・白岡町域・宮代町域・蓮田市域・岩槻市域などが、その位置関係から、かつての埼玉郡域に当たるのではないかと考えられている。郡は、古墳時代以来その土地を掌握していた豪族(在地首長)層の支配地域をもとに設置されており、各地で出土する木簡(もっかん)などの検討から大宝元年(七〇一)以前には評と称されていたことも知られている。また、それぞれの郡内に存在した郷名を知る手掛かりとして、ずっと後の平安時代の史料となるが、承平年間(九三一~九三八)に成立したと考えられている我国初の分類体百科辞典『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』(現在三つの異なる系統の写本〔①大東急記念文庫本、②高山寺本、③名古屋市博本〕の存在が知られている)には、この武蔵国埼玉郡の郷として、太田(①②③とも表記同じ)、笠原(①②③とも表記同じ)、埼玉(③は崎玉とする)、萱原(②③は草原とする)の四郷と余戸(①に記載なし)が載せられている。余戸は、文字どおり五〇戸により一郷を形成し得ない戸が存在したことを示すものであり、実質的には太田・笠原・埼玉・萱(草)原の四郷により、埼玉郡は構成されていたことがうかがわれる。「郷」は、五〇戸により構成されると令には規定されているが、一つの「戸」はこの当時の一家族であるとする考え方と、これが実態としての家族であることを疑問視する考え方とがあり、意見が分かれているのが現状である。

1-60 宮代町域 奈良・平安時代遺跡分布図


1-61 『和名類聚抄』
(名古屋市博物館所蔵)

 ところでこの当時、現在の宮代町域に実際に人は住んでいたのだろうか。近年まで宮代町内では奈良・平安時代の遺跡の存在は、ほとんど知られていなかったが、これに先立つ古墳時代の遺跡が多く発見されていたことから、奈良・平安時代にも人々が生活していたであろうことは十分に推測されるところであった。そのような中、平成五年(一九九三)の春、この宮代町史編さん事業の一環として、町内の遺跡の分布調査が実施され、奈良時代の遺跡としては、字中の中遺跡と弥勒院遺跡、字山崎の山崎山遺跡、大字須賀の須賀遺跡、大字東粂原の東粂原前遺跡、字道仏の道仏北遺跡、字東の中寺遺跡の存在が明らかになった。さらに、平安時代の遺跡としては、奈良時代遺跡でもある中遺跡、弥勒院遺跡・道仏北遺跡に加えて、新たに字山崎の山崎北遺跡と宿源太山遺跡、学園台の身代神社遺跡の存在も明らかになった。これらの遺跡からは、いずれも地表でその時代の土器片の散布が確認されており、正式な発掘調査の実施をまたなければならないが、地表下には人々の生活の跡である集落跡が遺存されているとみて間違いないであろう。そして集落跡が確認されれば、その場所は、必ず先に掲げた埼玉郡内の諸郷のいずれかに所属していたはずである。現在の宮代町域は後述のように、中世の時点では「太田荘」と呼ばれた荘園の一部に所属していたようであるから、かつての集落は古代にあっては前掲の四郷のうち太田郷を構成する諸集落の中の幾つかを占めていたものと考えられる。その具体的な姿は、遠からず明らかにされるであろう。