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住民としての義務・負担

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さて、奈良時代の人々は、六年に一度作られる戸籍と、毎年作られる計帳に登載され、六歳になると男女・年齢の別に応じて口分田(くぶんでん)と呼ばれた田を与えられることになっていた。計帳とは、次に述べるような租税を賦課(ふか)するための基本台帳であり、現在で言えば、戸籍に対して住民基本台帳にあたるものである。律令国家はその財源として各種の租税を設けていたが、口分田に課せられた田租(でんそ)は、各郡の役所(郡衙(ぐんが))に設けられていた倉(正倉(しょうそう))に正税として収められ、武蔵国の役人(国司(こくし))によって管理されていた。また、青年男子に課せられて中央へ送られる調(ちょう)(各地の特産物)や庸(よう)(本来は中央での労働であったが、実際には布で代納された)も存在した。このほか、二一~六〇歳の成人男子は正丁(せいてい)と呼ばれたが、その三分の一には兵役が存在し、武蔵国の軍団に配属される者のほかに、遠く九州の警護を担当した防人(さきもり)に選ばれる者もあった。この奈良時代にまとめられた日本最古の歌集である『万葉集』には、こうした防人の歌が多く載せられているが、その中には、この武蔵国埼玉郡出身の防人の歌も含まれている(以下、訓み下しおよび大意は岩波書店・日本古典文学大系本による)。
  足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹は清に見もかも(四四二三番)
   右の一首は、埼玉郡の上丁藤原部等母麿のなり。
  色深く背なが衣は染めましを御坂たばらばま清かに見む(四四二四番)
   右の一首は、妻物部刀自売のなり。
 まず夫の等母麿が「足柄山の坂に立って袖を振ったなら家にいる妻ははっきりと見るだろうか」と歌えば、妻の刀自売も「色濃く夫の衣は染めるのだったのに。足柄山の坂をお通りになったら、はっきり見えるだろうに」と歌で応えている。防人は、軍防令の規定では三年で交替するとされていたが、実際には任地の九州からそれぞれの故郷に二度と戻らない者も多かったようである。そのような別離の意味を知っていたのだろうか、互いに相手を思いやる等母麿夫婦の心情に思いをはせると思わず胸がつまってしまう。残念ながらこの若い(?)二人が、埼玉郡内のどこに住んでいたかは、知るよしもない。あるいは、宮代の地に暮らした二人だったかもしれない。
 こうした田租や調・庸の負担、そして兵役などは、現在と異なり生産性も低く自然災害の影響をまともに受けたであろう当時の人々に、時として重くのしかかることがあった。東大寺正倉院に伝わる神亀(じんき)三年(七二六)の『山城国愛宕郡雲下里計帳』には、和銅二年(七〇九)に同地から出雲臣乎多須(いづものおみおたす)という四〇歳の男が、この武蔵国埼玉郡に逃亡してきたことが記されている。逃亡者については、逃亡先で確認されることになっていたので、武蔵国埼玉郡の郡司からの連絡が、両国の国司を経由して乎多須の本来の居住地である山城国愛宕郡(京都府京都市付近)の郡司に届いていたのであろう。自らの故郷である山城国ひいては家族とも遠く離れた「四十男」の涙は、埼玉郡内のどの場所に落ちたのであろうか。