小敷田遺跡は、次節で詳しく述べるように武蔵国埼玉郡の郡役所(郡衙)跡と思われる遺跡であるが、この木簡には、表に「九月七日五百廿六□[次カ]四百」、裏に「卅六次四百八束并千三百七十小稲二千五十五束」という文字が記されていた。これは、「九月七日」という月日、そして五二六束、四三六束、四〇八束という三つの稲束量とその総計に当たる一三七〇束という稲束量の記載であり、続く「小稲」二〇五五束という稲束量は、一三七〇束のちょうど一・五倍(五割増)に当たる稲束量である。詳細な検討の結果、このような記載内容は、この木簡が、この当時行われていたとされる利息付きの稲の貸借制度である「出挙」を記録したものであることが判明したのである。出挙の制度はすでに古墳時代ごろから存在していたと思われ、もともとは各地の在地首長層が困窮した農民たちに春と夏の二回、管理していた稲を貸し出すという相互扶助的な慣行であったものが、律令国家の成立以後も五割または十割という利率で公的な制度「公出挙(くすいこ)」として継続していたものと考えられている。ただし、公出挙では相互扶助的な役割は薄れ、むしろその利息の稲を先の田租と共に各国の「正税」として、各郡衙に設けられていた正倉に蓄えて、各国の地方行政の経費や中央への進上物の調達費用に充てていたようであり、これを維持していくために、農民たちに半ば強制的な稲の貸し出しが行われていたようである。
これまで、こうした制度については、数少ない文献資史料からその存在をうかがい知るだけであったが、小敷田遺跡の木簡は、利息五割の出挙が実際に行われていたことを示す初めての物証として重要な発見であった。残念ながら、小敷田遺跡すなわちかつての埼玉郡の郡役所(郡衙)から出挙を受けていたのが、埼玉郡内のどこに暮らしていた農民たちであったのかは明らかではないが、現在の宮代町域に暮らしていた人々も、きっとこうした制度の下で暮らしていたのであろう。
1-62 小敷田遺跡木簡 (埼玉県立埋蔵文化財センター所蔵)
1-63 平安時代に一般の人々が用いていた土器
~蓮田市椿山遺跡出土~ (蓮田市教育委員会提供)