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古墳時代以来の川の利用

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既に古墳時代からこの両水系は経済的・政治的な大動脈であったようである。このことを知る手掛かりの一つが、古墳の石室に使用された石材、特に「房州石」と緑泥片岩(りょくでいへんがん)の動きである。まず、この旧利根川水系と旧荒川水系の下に位置する行田市の埼玉古墳群の将軍山古墳(六世紀後半)の石室(天井石)に使用された石材は、いわゆる「房州石」(凝灰質砂岩…千葉県富津市鋸山周辺の海岸に見られ、穿孔貝(せんこうがい)による穿孔が多数ある)であり、両水系のいずれかを利用した石材運搬を想定せざるを得ないのである。一方、東京湾に臨んで位置する千葉県木更津市の金鈴塚(きんれいづか)古墳(六世紀後半)の石室(天井石)は、長瀞町周辺で産出され、中世には板碑に使用されたことでも知られる緑泥片岩であり、川を下っての石材運搬が立証されよう。埼玉と房総の豪族(在地首長)層間の関係については既に明らかにされつつあるが、まさに「六世紀初頭以後の武蔵広域首長連合形成の象徴の一つ」として理解しておきたい。

1-64 房州石・緑泥片岩製石室分布図

 また、関東地方から出土した初期須恵器(五~六世紀代の朝鮮半島系硬質土器及び、近畿地方産須恵器)の分布状況も注目され、その出土地点は、明らかにここで問題としている旧利根川水系や旧荒川水系、そして旧入間川(上流域…入間川~中流域…荒川)水系に沿って分布している。これらの初期須恵器は、人々がふだんの食事に用いていたものではなく、東京都足立区伊興(いこう)遺跡ほかの祭祀関係遺跡や、熊谷市鎧塚古墳などから出土することに端的に示されているように、在地首長層が入手し、祭祀関係の場で使用したものと推測されている。以上、古墳の石室に使用された石材や初期須恵器の分布状況から明らかなように、古墳時代中期以降の五~六世紀代には、現在の宮代町域の東西に位置する旧利根川水系や旧荒川水系の河川交通は、埼玉古墳群を造営した在地首長を始めとする両水系流域の在地首長層が掌握していたとみてよいであろう。

1-65 古式須恵器分布図