それぞれの遺跡からは九世紀前半ごろと思われる「中」という文字を記した土器(墨書土器)が出土しており、立地条件などからみてもこの両遺跡は実際には一体の遺跡と考えられるが、ここで注目しておきたいのは、両遺跡から見つかった「倉庫」に関係する遺構・遺物である。まず小敷田遺跡では、先の出挙木簡をはじめとする八世紀前後の木簡群が、二基の土坑(どこう)(地面に掘った大きい穴)に廃棄されたかたちで出土し、さらにこの土坑に隣接して二×二間と二×三間の総柱建物(一般に建物の周囲の壁を支える柱だけで構成され住居などに利用された側柱建物に対して、建物内に床を支える束柱を持ち、床に対する負荷に耐える構造となっている)の跡と、かつての河川跡が見つかっている。すなわちこの二棟の総柱建物跡はその構造上から倉庫的な機能を有していたものと考えられ、返済された出挙の本稲(実際に貸し出されたものと同量の稲)や利稲(利息の稲)などが河川の舟運を利用して輸送され、ここに出納されていたことが推定される。また池上遺跡からは、九世紀中葉以前とされる木製の扉が出土しており、これには、一般に倉庫扉などに多用された「落とし猿」用の鍵穴が穿孔(せんこう)されていることから、倉庫扉と推定されている。
このように両遺跡には、倉庫的な施設が存在していたようであり、おそらくこれらの倉庫に収めたであろう田租や出挙稲といった物資の輸送には、河川の舟運が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。ちなみに寛平(かんぴょう)六年(八九四)七月十六日に出された太政官符(律令官制の最高機関であった太政官が八省以下の全官司に下した文書)には「進上の調物は駄を以て本と為よ、運漕(うんそう)の官米は船を以て宗と為よ」とあり、そのほとんどが布(調布)であった調は馬によって、また田租や出挙稲などの官米は船でそれぞれ輸送されることになっていたことが知られている。
1-66 中宿遺跡航空写真 (岡部町教育委員会提供)
1-67 復元された榛沢郡の郡衙正倉
(岡部町教育委員会提供)
そしてこの両遺跡は、前節で紹介したように、通常、郡衙の正倉に収められた正税を利用して行われた公出挙関係の木簡の出土(小敷田遺跡)や、「前」と記した墨書土器(律令の施行にあたっての細則(式)を集大成した『延喜神名式(えんぎじんみょうしき)』(延長(えんちょう)五年(九二七)完成)に、武蔵国埼玉郡の式内社四座として「前玉(さきたま)神社二座」の名前が見える。したがってこの墨書「前」は、郡名である「前玉」の省略形である可能性がある)の出土(池上遺跡)などから考えて、今のところ、武蔵国埼玉郡衙の跡である可能性を考えておくのが自然であろう。埼玉県内のほかの郡衙関係遺跡の立地をみても、かつての武蔵国榛沢郡の郡衙正倉跡とされる岡部町中宿遺跡も人工の運河に接して立地しており、同じく初期の足立郡衙跡が所在した可能性があるさいたま市大久保地区も、旧入間川(荒川)の自然堤防上に存在した可能性が強いなど、北武蔵地域においては、それぞれの郡衙、特に正倉は、物資の舟運を念頭に置いて河川の近くに設けられることが多かったようである。現在の宮代町域に暮らしていた人々も、その田租や出挙稲などを、舟運を利用して、この埼玉郡衙まで運んでいったのではないだろうか。ここで想起されるのが、
埼玉の津に居る船の風を疾み
綱は絶ゆとも言な絶えそね(三三八〇番)
という『万葉集』に収められた東歌(東国関係の歌)の中の相聞歌(恋慕や親愛の情を述べた贈答歌)である。「埼玉の津に泊まっている船のもやい綱は、風がはげしくて、切れることがあろうとも、私への言葉は絶やさないで下さい」という恋の歌であるが、具体的に場所までは特定できないものの、この当時の埼玉郡内を流れる河川の津(港)に、上野国から強く吹き下ろす「からっ風」に帆をいっぱいに膨らました船が次々と出入する様子が目に浮かぶような歌である。
1-68 万葉歌碑が刻まれる灯籠 (行田市 前玉神社) | |
灯籠には、次頁の三三八〇番の歌をはじめとして、埼玉の地名が登場する『万葉集』の歌が二首刻まれている。元禄十年(一六九七)の建立であり、この灯籠を歌碑として評価した場合には、日本最古の『万葉集』歌碑となる。 |
もちろんこうした舟運は、田租や出挙稲などといった租税を運ぶことだけに用いられていたわけではない。奈良時代末から平安時代にかけて、徐々に私的な経済活動を基盤として、律令国家体制とは異なる新たな地域支配を確立していく人々、すなわち在地領主層が登場し始めるが、彼らもまた、こうした舟運をその経済活動にフルに活用していたことであろう。やがて彼らはその私的な経済活動を維持するために武装し、武士となって古代とは異なる新たな社会を誕生させていくのである。