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[時代概観]

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 平安時代も後半になると、各地で開発が進行し、貴族や大寺社の荘園として編成されていった。武蔵国でも十二世紀ごろから、在地領主たちによって開発が進められた。宮代町域には、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫太田行尊によって開発され、後に、鳥羽(とば)天皇の皇女八条院暲子(はちじょういんしょうし)に寄進される太田荘が形成された。この頃中央では、白河天皇が応徳(おうとく)三年(一〇八六)、幼少の堀河天皇に譲位して以来、天皇の直系尊属である上皇が天皇在位中の制約を離れ、自由な立場で政治を行う院政が展開されるようになった。
 平安時代には、神仏習合が進み、在来の神は、仏が仮に姿を変えてこの世に現れたのだとする本地垂迹(ほんちすいじゃく)説も生まれた。この時期の仏教は、天台・真言の二宗が勢力を持ち、現世利益を求める貴族と強く結びついていたが、釈迦の入滅後、正法(しょうぼう)・像法(ぞうほう)を経て、仏の教えがすたれる末法の世が来るという末法思想が広がり、人々は、次第に阿弥陀仏を信仰して来世での幸福を願い、現世の不安からのがれようとした。このような浄土信仰は、貴族をはじめ庶民にも広がり、やがて日本列島全域に広がって、各地で阿弥陀仏が造立され、阿弥陀堂が建立された。安元二年(一一七六)の銘を持つ西光院の阿弥陀像もまさにこの時期のものである。
 院政期に北面の武士などとして院に仕えていた武士は、次第に成長し、政権を獲得するに至った。保元(ほうげん)の乱・平治(へいじ)の乱を経て、台頭した平清盛は、武士として初めて太政大臣となり、さらに、高倉天皇の中宮となった娘の徳子(とくし)(建礼門院)の生んだ安徳天皇が即位すると、外戚として権勢を振るった。しかし、平氏政権は長続きせず、後白河上皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉じて平家討伐の兵を挙げた源頼朝らとの間で、いわゆる源平の争乱(治承・寿永(じしょう・じゅえい)の乱)となり、平氏滅亡によって終わりを告げた。この乱で、源頼朝方として、古利根川の対岸にある下河辺荘(しもこうべのしょう)の荘司下河辺行平などが活躍している。
 平氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉に幕府を開き、東国に軍事政権を成立させた。頼朝は、各地の武士と主従関係を結んで御家人とし、各国の有力御家人を守護に任命し、御家人の指揮・監督、殺害人・謀反人の取り締まりにあたらせた。また、平氏や謀反人の旧領に御家人を地頭に任じて送りこむとともに、それまで、各地の荘園・公領に置かれていた地頭・下司などを頼朝の監督下に置いた。御家人は、平時には京都大番役・鎌倉番役などの警固を行い、戦時には「いざ鎌倉」という言葉で表現されるように、軍役を勤めた。各地の御家人の館と鎌倉を結ぶ道が整備され、これが後世「鎌倉街道」と呼ばれるようになった。宮代町内にも、鎌倉街道の一つである「中道」が通っていた。
 承久(じょうきゅう)元年(一二一九)に三代将軍源実朝が暗殺され、源氏の嫡流が滅びると、鎌倉幕府は、執権北条氏を中心とする御家人の合議によって運営されるようになった。後鳥羽上皇と戦った承久の乱に勝利した後は、幕府は朝廷をしのぐ力を持つようになり、幕府による支配も北海道と沖縄を除く、日本列島全域に広がっていった。
 支配が安定すると、産業・経済などの発展もみられた。開発が盛んに行われるようになり、宮代町域では、旧利根川右岸に発達した自然堤防上などで開発が進行したようである。鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、執権北条泰時が太田荘内の荒地の開発を命じた記事がみられる。また、生産力の向上、流通の発展により、各地に市が開かれるようになり、「久米原」・「須賀」などに市が開かれていたという。二度にわたる蒙古襲来を何とか切り抜けた鎌倉幕府は、得宗(執権北条氏の家督)に権力を集中させる得宗専制政治を展開したが、得宗と身内人と呼ばれる得宗家人による専制政治は、それまで幕府を支えていた御家人体制を崩すことになり、鎌倉幕府は滅亡への道を歩んだ。
 鎌倉幕府に反発していた有力御家人足利尊氏・新田義貞らの力を得て、元弘(げんこう)三年(一三三三)に幕府を滅ぼした後醍醐(ごだいご)天皇は、建武新政と呼ばれる天皇親政の政治を展開しようとした。しかし、足利尊氏を中心とする武家勢力と対立し、以後、六〇年にわたる南北朝の内乱の幕開けとなった。足利尊氏は京都に幕府を開き、武家政治を行おうとしたが、幕府をそれまでと同様に鎌倉に置くか、京都に置くかということで議論があった。これは、幕府を京都に置き、朝廷の権力を吸収しようとするものと、京都の朝廷から相対的に独立した東国の政権を樹立しようとしたものとの対立であるとも考えられる。京都に幕府を置いたことにより、東国に対する新たな方策が必要となり、鎌倉府が置かれ、足利尊氏の次男基氏が鎌倉公方(くぼう)となり、東国支配のための強力な統治権が与えられた。
 鎌倉時代には、得宗領となっていた太田荘は、開発領主太田氏の子孫で、下野(しもつけ)国の守護であった小山(おやま)氏の所領となったが、小山義政が鎌倉公方に反乱を起こして滅亡したため、その後は鎌倉府の直轄領(御料所)となった。小山氏の滅亡は、南北朝の内乱期に成長した守護勢力と鎌倉府との対立によるものであった。
 室町幕府三代将軍足利義満は、明徳(めいとく)三年(一三九二)に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で南北朝を統一させ、南北朝の内乱期に成長した有力守護を抑制しながら、幕府権力を確立させた。
 その後、守護大名や国人が台頭し、南北朝期に成長した民衆による一揆の頻発などもあって、幕府政治は動揺した。さらに、六代将軍足利義教(よしのり)は、「万人恐怖」といわれるような強圧的な専制政治を行い、義教に反発する鎌倉公方足利持氏が、永享(えいきょう)十年(一四三八)に永享の乱を起こし、翌年、鎌倉公方は滅亡した。しかし、義教は嘉吉(かきつ)元年(一四四一)に、播磨守護赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺害され、将軍の権威は失墜した。
 東国では、持氏の遺児成氏(しげうじ)によって鎌倉公方が復活したが、関東管領上杉憲忠と対立し、享徳(きょうとく)三年(一四五四)末、成氏が憲忠を殺害した。これにより、成氏は幕府の追討ちをうけ、享徳の乱が勃発し、関東を二分する大乱となった。鎌倉公方成氏は、下総国古河(こが)に逃れ(古河公方)、将軍義政は弟政知を関東に下したが、政知は鎌倉に入れず、伊豆国堀越(ほりごえ)に居所を構えた(堀越公方)。
 一方、京都では、将軍や管領家の家督相続争いに端を発して応仁・文明(おうにん・ぶんめい)の乱が起こり、これをきっかけとして多くの守護大名が没落し、成長した守護代・国人などが台頭した。これにより、幕府・守護体制と荘園公領制は解体に向かい、幕府は、山城国を中心とする地域政権に転落した。さらに、明応(めいおう)二年(一四九三)、幕府の管領細川政元が将軍足利義材(義尹・義植)(よしき(よしただ・よしたね))を追放して、堀越公方政知の子義澄を擁立した。将軍の廃立を家臣である細川氏が実力で行ったこの事件が、幕府解体の大きな契機となった。同年、東国では、伊勢宗端(北条早雲)が堀越公方政知の遺児茶々丸を追放し、伊豆を制圧するという事件もあり、この年が戦国時代の始まりと考えられている。この時代は、いわゆる下剋上が広まり、実力で地域権力を確立した戦国大名が出現した。戦国大名の出自は、守護、守護代が成長したものや、国人、一介の浪人などさまざまであった。彼らは、「分国」と呼ばれる地域権力を形成し、中には「分国法」という法令を制定するものもいた。武蔵国は、天文(てんぶん)十五年(一五四六)の河越夜戦で、関東管領上杉氏を破った後北条氏の勢力下に入った。宮代町域は、河越夜戦後に北条氏と同盟関係を結んだ岩付太田氏の支配下にあり、その後、後北条氏の直接支配を受けるが、この時期の百間地域では、鈴木雅楽助(うたのすけ)という在地領主の活躍がみられる。
 ところで、中世全般を通じて、中国大陸、朝鮮半島との交流は盛んであった。宋・元とは正式な外交関係はなかったが、商人や僧侶などによる交流があった。しかし、倭寇と呼ばれる海賊が、中国大陸や朝鮮半島の沿岸地域に被害を及ぼすこともあり、しばしば鎮圧要求がなされている。足利義満は、倭寇の鎮圧要求に応じ、明との朝貢形式の勘合貿易を始めた。さらに、朝鮮や琉球とも盛んに交流し、生糸・木綿・大蔵経などの多くの文物がもたらされ、日本列島の人々の生活や文化に大きな影響を与えた。特に、宋銭・明銭が大量に輸入され、貨幣経済が進展した。当時は、中国大陸で発行された銭貨が広く東アジア地域で使用されており、宮代町内の中世遺構からも宋銭や明銭が出土している。これは、中世の宮代町域も、東アジアの交易圏の中で流通が発展していたことを物語っている。