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中世の西光院

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阿弥陀三尊像が伝わる西光院の当時の状況は、現在とはかなり違っていたようである。現存はしないが、かつて西光院持ちであった雷電神社の天文二十二年(一五五三)の鰐口(わにぐち)の銘文によれば、西光院はかつて「百間山光福寺」といった。行基(ぎょうき)創建の伝承があり、かつては法相宗(ほっそうしゅう)の大寺院であったという。戦国期の中興開山日雄(にちおう)のときに京都の新義真言宗醍醐寺三宝院末となり、末寺門徒塔頭(たっちゅう)が二七か寺を数えたという。その片鱗は、江戸時代の境内絵図「西光院建前図面並びに坪数等之進上書」で確認できる。
 西光院は点在する塔頭寺院を含めて、台地上に展開した宗教施設の集まった地域にあった。東の端「東神外(ひがしじんが)」には榎が二本あり、これが元々の総門の跡であったとしるされている。字「戸崎」には「広照坊(こうしょうぼう)」、総門から西光院の中心に続く道筋には「明積坊」・「東光院」・「池ノ坊」があり、古い参道も分かっている。ここから西光院本堂へ行くには、「くつかけ地蔵」の前を直角に北行しなければならない。すなわち、旧参道とは交わらないということである。旧参道の到達点には「阿弥陀堂」と「五社(ごしゃ)神社」があり、さらに、その間には鰐口のあった「雷電社」がある。そしてその奥には「大蔵坊」「不動坊」といった塔頭があった。

2-1 西光院旧阿弥陀堂

 そこで、西光院の本尊が阿弥陀如来像であることや、こうした位置関係から、中世期の西光院=光福寺の創建からの本来の姿は、その中心が現在の五社神社北側付近にあったのではないかと考えられる。旧参道を下った池ノ坊、現在の西光院の前面、五社神社北側から旧参道を下った池ノ坊付近の南側は、窪地になっており、かつてはここが池だったのではないか。そうだとすればここが浄土庭園のような趣を見せていた可能性もある。また、窪地が川にまで及ぶものであれば、船がここまで入ってきたことも考えられる。旧阿弥陀堂は西を背にして建てられていたところから、夕日を背景にした本尊阿弥陀如来像は、まさに極楽浄土の姿を顕現していたといえよう。

2-3 西光院付近位置図