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地蔵院阿弥陀如来坐像

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ところで、最近の調査で、宮代町内には西光院の阿弥陀三尊像とあまり時期を違えない、やや遅い平安時代末期から鎌倉時代初期(十二世紀末)の仏像があった。それが西原の地蔵院の阿弥陀如来坐像である。高さが四五・五センチ、やはりヒノキ材で割矧ぎ造りの技法を用いた仏像である。この像は勝軍(しょうぐん)地蔵(江戸時代)を本尊とする地蔵院の脇仏として伝来しているが、西光院の像に比べて保存状態はあまりよくなかったらしく、本体に欠損や後の修復の跡がみられる。江戸時代の早い時期と思われるころに行われた修理によって大幅な後補改修が行われ、その後も大正年間に修理・塗り替えがあったことが台座の受座底部の修理墨書銘からわかる。
 この仏像は、十二世紀末葉ころのいわゆる院政期の定朝様式による如来像の特徴を示しており、製作時期もそのころにさかのぼるという。破損・補修が目立つものの、比較的造立当初の姿をよくとどめており、埼玉県東部地域では見逃せないものである。

2-4 地蔵院阿弥陀如来坐像

 このように、宮代町内には平安末期~鎌倉初期(十二世紀末)の作と伝えられる二つの貴重な仏像が存在する。この当時、これだけの貴重な仏像が納められた背景には、この地域の村落のあり方を見逃すことはできない。当時の宮代町はどのようなところであったのであろうか。どうしてこうした仏像が存在し得たのであろうか。ここから「中世の宮代」について考えてみよう。