これらの仏像が造られた中世の宮代地域は、「太田荘」と呼ばれた荘園の一部であった。古代以来、公地として把握されていた田以外の土地が開発され、荘園が形成されたが、この太田荘は、『吾妻鏡(あづまかがみ)』文治(ぶんじ)四年(一一八八)六月四日条に文献上初めてあらわれる。これは、鎌倉幕府が朝廷に対して発した、近年の荘園における地頭の沙汰(支配)についての問い合わせに対して、後白河法皇の回答という形で出された朝廷側からの返答書である。内容は、それぞれの荘園の様相を詳しく調べて年貢を納めるように求めているが、この背景には、治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱(源平の争乱)によって、荘園支配や年貢納入などに混乱が生じていたことがあったと見られる。そうした荘園の中に「武蔵国 太田荘」は、隣接する「下総(しもうさ)国 下河辺荘(しもこうべのしょう)」とともに「八条院領」として登場するのである。
この「八条院領」の「八条院」とは、後白河法皇の父鳥羽天皇(上皇)の第三皇女八条院暲子(しょうし)内親王のことである。暲子は応保(おうほう)元年(一一六一)に院号宣下されて八条院になり、安元(あんげん)二年(一一七六)に没するまで「八条院」として所領を支配した。すなわち、太田荘は下河辺荘とともに八条院の荘園二三〇か所の一部であった。このことから、太田荘の成立は、文治四年(一一八八)以前であることは当然であるとして、暲子が八条院となった応保(おうほう)元年(一一六一)ごろまでには成立していたことも間違いない。