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開発領主太田氏

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太田荘そのものが、いつどのように荘園として成立したかについては不明な点が多いが、太田荘は『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の埼玉五郷のうち、「太田郷」を中心とする地域が荘園化したものである。その範囲は後に詳しく見るが、古代以来の埼玉郡域(現在の北埼玉郡・南埼玉郡)の東半分を占める広大な領域であった。一般に当時の荘園は、地方豪族が開発や所領の売買によって獲得した自己の領地を、中央の権門(有力な寺社や貴族や皇族など)に寄進することによって成立すると考えられている。この太田荘の開発・寄進者は、太田大夫行尊という人物であったと推定されている。
 太田行尊は、十世紀半ばの承平(じょうへい)五年(九三五)~天慶(てんぎょう)三年(九四〇)に関東で起きた「平将門(たいらのまさかど)の乱」の鎮圧に功績があった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である。中央の軍事貴族の家柄の出身である藤原秀郷は、乱の鎮圧後も関東に土着したが、その子孫は代々鎮守府(ちんじゅふ)将軍という官職を持つとともに、下野(しもつけ)(栃木県)から上野(こうづけ)(群馬県)の安定した山麓地帯に勢力を有していた。下野国足利荘(足利市)の足利氏、上野国淵名荘(ふちなのしょう)(佐位郡)の淵名氏などは、同流の出自(しゅつじ)である。
 太田行尊の父頼行も鎮守府将軍として十一世紀前半に活動していた人物である。行尊は頼行の実子ではなかったが養子となり、武蔵国埼玉郡に進出して太田荘の開発に従事したと考えられている。系図によれば、行尊は「太田大夫」「太田別当(べっとう)」を称している。「大夫」は五位という位階に任官したものを示し、「別当」は管理者を意味する。また行尊は「下野介」も称しているところからすれば、下野国の役人(次官)でもあった。つまり行尊は、太田荘の開発領主であると同時に、下野南部から武蔵・下総にかかる広大な領域を支配する地方豪族であった。

2-5 藤原秀郷流関係略系図

 このようなことから、太田荘の成立は現在のところ太田行尊が活動した十一世紀後半までには成立していたと推定されている。しかし、どのような手続きを経て「八条院領」になったのかについては、さらに、太田行尊の子孫の活動と隣接する下河辺荘の動向を合わせてみることにしよう。