ここでもう一度、太田行尊の流れを示す系図を見てみよう。この「太田大夫」を名乗った行尊の系譜を引く子孫は、行政―行光(「太田四郎」)―行広(「太田次郎」)―行朝(「太田権守(ごんのかみ)」)と太田荘を伝領していくが、その流れからは越谷付近の大河戸氏、久喜付近の清久氏、騎西付近の高柳氏を輩出している。一方、行政の子で行尊の孫政光は小山(おやま)氏を興し、この流れからは後の結城氏・山川氏・寒河(さむかわ)氏・幸島氏など下野南部地域に展開し、支族を輩出したが、政光の兄弟行義は太田荘のとなりで下総国葛飾郡の北半分を占めた下河辺荘の開発にかかわり、下河辺氏となっている。すなわち、太田氏・小山氏・下河辺氏らはもともと同じ一族だったのである。そして、太田行尊の系譜を引く一族は、下野を拠点とした小山氏系を除くと、太田荘や下河辺荘といった古利根川流域の自然堤防上に位置した、湿田低地の地域を基盤としたものが多いことが分かる。
ところで、この「○○荘」という中世の荘園は、私的に土地を開発して排他的に支配した在地領主が、中央の貴族や有力寺社にその土地を「寄進」して、自らはその荘園の荘官(管理人)になるという「寄進地系荘園」の考え方が一般的な理解であった。ところが、摂関政治の全盛期である十一世紀ころに成立した初期の荘園は、国衙(こくが)に対して払う税を免除されたごく少量の個別の田地(免田)にすぎない。そして、中世を通じて存続する荘園は、田畑だけでなく山野河海を含む広い領域を持つものであり、これらは国衙領(公領)と併存したり、あるいはもともと国衙領であったところを囲い込む形で成立していったことが明らかになってきている。
こうした形の荘園が増加するのは、平安時代末期の白河・鳥羽・後白河の三代にわたる院政期であり、こうした荘園の成立=立荘の際に大きな役割を果たしたのが、院や女院の近臣となった貴族たちであった。彼らは院から知行(ちぎょう)国を与えられると、自らの子弟や近親者を国守(名目上の国司)に推挙し、私的縁故によって寄進された土地の持ち主には荘官の職を付与して荘園の経営を進めた。そして実際には、現地(国衙)に目代を派遣して国内を支配し、その国から納められる公納物などの収益を獲得した。こうして、一国の国衙領と荘園の両方を支配する仕組みによって、院と院の近臣たちの知行国には膨大な荘園が形成されていくことになる。