太田荘の範囲は、古代以来の埼玉郡(現在の北埼玉郡・南埼玉郡)の東半分にあたる。埼玉郡の東という意味から「埼東郡(きとうぐん)」とも呼ばれた。文禄四年(一五九五)の鷲宮神社棟札によれば、創建当時の太田荘は六六の村から成立したとし、応永二年(一三九五)の熊野那智大社文書の「本宮盛宗道者売券」にも「太田六十六郷」とある。一方、中世地名で確認できる太田荘呼称例は三四例である。六六という数値は実数と見なすことはできないが、『新編武蔵風土記』に見える近世に太田荘を名乗った村は何と一八六か村にも及ぶ。この中には近世に成立したり分村した村も含まれている。この太田荘域の特徴は、荘の鎮守として村々に鷲宮神社が勧請されており、その分布が近世に「太田荘」と呼称された地域と重なるということである。したがって、中世太田荘の荘域は『新編武蔵』に見える近世太田荘の村々の範囲に比定することができ、その荘域は久喜市・羽生市・加須市・騎西町・大利根町・鷲宮町・白岡町・春日部市・岩槻市、そして宮代町などにまたがる広大な範囲である。「六六」という数字はこのように巨大であることを意識させる意味があったのかもしれない。