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太田荘の景観

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ところで、太田荘域の景観はどのようなものであったろうか。正応二年(一二九〇)ころ、関東を訪れた尼僧後深草院二条(ごふかくさいんにじょう)は、その著『とはずがたり』で、関東平野の風景を「山というものはこの国内には見えない。馬に乗っている男の姿が見えないほどの、高さのある草木の生い茂った野の中をはるばると分け入って行くが、お堂や宿が原っぱのかたわらにちょこんとあるだけで、見渡す限り野原である」と書いているように、茫漠たる平原であったようである。中世の宮代地域は起伏の少ない平坦な土地柄ではあるが、台地上と自然堤防上に村落や耕地が形成されるが、その間は河川や後背湿地が広がっている。この景観は太田荘全体でもさほど変わることがなく、旧利根川の流れを中心に、それほど高い木はない平地林に、低い草木で覆われた台地と、葦や真菰(まこも)が生い茂っている氾濫原をなした低湿地が広大に広がっていたものと見られる。

2-11 宮代町の地形図

 こうした低湿地は、現代の感覚からすると、開発が進めば肥沃な水田地帯を形成していたと考えられがちであるが、実際は中世期の農業技術では排水がそれほど簡単なことではなかったので、水田は不安定で絶えず水損にさらされた生産力の低い土地であった。したがって、水田は湧き水のある台地の谷地(谷戸(やと))部分や、比較的水はけのよい自然堤防に隣接した湿地部分などに限られた。むしろ中世の関東平野の自然堤防や台地上では、麦などを中心とした畠作農業が盛んであったことがわかってきている。

2-12 宮代町の景観
(字東付近)