太田荘の直轄領化以降、幕府は自らの膝元で御家人の多い武蔵国において積極的な新田開発に乗り出す。開発の方法は、広大な耕作されていない荒野にその土地を支配する地頭が浪人などを招き据えることであった。とりわけ太田荘・下河辺荘の地域では、建久五年(一一九四)十一月に太田荘に利根川などの堤防修築工事を命じ、堤の修理は春の田植えに間に合うように、翌年三月までに終わらすことを命じている。また、隣の下河辺荘でも建長(けんちょう)五年(一二五三)八月に、荘内に堤を築くことが命じられ、上清久(久喜市)の白幡山館(しらはたやまやかた)に本拠をおいたと見られる太田荘の住人清久氏が、築堤のための奉行人に定められた。
そして寛喜(かんぎ)二年(一二三〇)一月には、北条氏が太田荘内の荒野を新たに開発することを命じ、家令尾藤(びとう)景綱を奉行人として命じている。これは、源家将軍滅亡後、太田荘が北条氏の得宗(とくそう)(執権北条氏の家督)領となっていく過程を示していよう。幕府は支配の中核に位置する武蔵の支配に力を入れており、そのため『検注』(検地)を行って「太田文(おおたぶみ)」(一国毎に国内の田地の面積・領有関係などを記録した税金などの賦課の基準となる台帳)の作成を試みていた。太田荘をはじめとする武蔵国内の新規開発には大変力を注いでおり、新たな耕地の増大を目指していたが、実際はなかなかうまくいかなかったようである。
この理由としては、この地域が多くの河川の氾濫原にできた低地に位置するため安定性が低く、定着しなかったことが考えられる。この地域では、水害などの自然災害から耕地や人々の生活を守るには基本的に堤などの大規模な土木構築物が必要であり、治水や築堤の技術が求められたのである。太田荘の地頭たちは幕府の主導によって古利根川の沖積地に築堤工事を行ってきたが、彼らは築堤工事や治水技術を持つとともに、そうした能力ある人々を動員できたので、開発の奉行人となったのであろう。
そうした痕跡を、宮代の対岸下河辺荘下高野(杉戸町)に見ることができる。それは人工堤防の存在である。高野地内の砂丘の中から、鎌倉街道中道(なかみち)に沿う形で人為的な古堤防が発見されたのである。下高野永福寺に残る『龍燈山伝燈紀』の、明徳(めいとく)三年(一三九二)七月条には、暴風雨によって高野川(古利根川)の堤が崩壊したことが記述されている。発掘成果によって、この人工堤防の最上層からは長禄(ちょうろく)三年(一四五九)の年紀を有する板碑、古利根川寄りの底部からは平安期の瓶、盛土からは十三世紀末ころと推定される常滑(とこなめ)焼の陶器破片が出土している。また永福寺はこの堤防上に位置していることからすれば、高野一帯はこの人工堤防によって守られており、それは少なくとも鎌倉期には築造されていたものであることは間違いない。これは中世の土木構築物としてはかなり大きなものであり、こうした技術によってこの地域の村の開発が進展し、生活が守られていたということは、注目すべきことではないだろうか。
2-13 高野に残る堤防跡 (杉戸町教育委員会提供)
2-14 発掘調査で確認された高野の堤防
(杉戸町教育委員会提供)