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コラム 金石文からみた太田庄南方

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 太田荘の成立は、不明であるが、『吾妻鏡(あづまかがみ)』の文治(ぶんじ)四年(一一八八)六月四日の条に「八条院領武蔵国太田荘」とあるのが初見である。八条院とは、鳥羽上皇が出家した時に御領を女御美福門院(にょうごびふくもんいん)と皇女暲子(しょうし)内親王(八条院)に譲ったが、この時の荘園と安楽寿院(あんらくじゅいん)領が八条院領のはじめと考えられている。鎌倉幕府の成立後は、幕府の支配下になり、建久(けんきゅう)五年(一一九四)十一月太田荘の堤の修固が命じられている。鷲宮町の鷲宮神社は、荘内の総鎮守として信仰を集めている。
 永仁(えいにん)四年(一二九六)十一月八日銘の大乗院梵鐘には、「武州寄東郡太田御庄」とあり、太田庄は寄西郡からの分離によってできたとの説もある。
 太田荘の範囲は、西は北河原分水筋から忍川(おしかわ)、新川用水筋、日川(にっかわ)、元荒川、南は元荒川から古利根川へ向かって流れる古隅田川、東は浅間川、古利根川、北は利根川に囲まれた地域と考えられる。
 太田荘は、金石文資料をみると北と南に区分けすることができる。北の初見資料は、貞治(じょうじ)六年(一三六七)銘の薬師如来坐像に「武蔵国太田庄北方永明寺」(羽生市永明寺)とある。南の初見資料は、応永(おうえい)二十一年(一四一四)銘の鰐口(宮代町宝生院)に「武州太田庄南方百間姫宮」とある。ほかには、「太田庄南方はさま」「太田庄南方吉羽郷」「太田庄南方下村霊鷲院」「太田庄南方百間山光福寺之内雷電宮」とあり、太田庄南方の範囲は、北限は鷲宮町付近から大利根町の阿佐間付近と考えられる。東は古利根川、南は古隅田川、西は元荒川、日川、新川用水筋と考えられる。

2-15 「太田庄南方」と記された「百間山光福寺之内雷電宮鰐口」
((独)国立公文書館所蔵)