永仁(えいにん)四年(一二九六)十一月八日銘の大乗院梵鐘には、「武州寄東郡太田御庄」とあり、太田庄は寄西郡からの分離によってできたとの説もある。
太田荘の範囲は、西は北河原分水筋から忍川(おしかわ)、新川用水筋、日川(にっかわ)、元荒川、南は元荒川から古利根川へ向かって流れる古隅田川、東は浅間川、古利根川、北は利根川に囲まれた地域と考えられる。
太田荘は、金石文資料をみると北と南に区分けすることができる。北の初見資料は、貞治(じょうじ)六年(一三六七)銘の薬師如来坐像に「武蔵国太田庄北方永明寺」(羽生市永明寺)とある。南の初見資料は、応永(おうえい)二十一年(一四一四)銘の鰐口(宮代町宝生院)に「武州太田庄南方百間姫宮」とある。ほかには、「太田庄南方はさま」「太田庄南方吉羽郷」「太田庄南方下村霊鷲院」「太田庄南方百間山光福寺之内雷電宮」とあり、太田庄南方の範囲は、北限は鷲宮町付近から大利根町の阿佐間付近と考えられる。東は古利根川、南は古隅田川、西は元荒川、日川、新川用水筋と考えられる。
2-15 「太田庄南方」と記された「百間山光福寺之内雷電宮鰐口」
((独)国立公文書館所蔵)