平治(へいじ)元年(一一五九)の平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆に配流されていた源頼朝は、治承(じしょう)四年(一一八〇)、後白河法皇の第二皇子以仁王(もちひとおう)の命を奉じて平氏討伐の兵を挙げ、これをきっかけにいわゆる源平の争乱(治承・寿永(じゅえい)の乱)がはじまった。鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、寿永二年(一一八三)閏(うるう)二月二十日(『吾妻鏡』には「養和(ようわ)元年」=一一八一年とあるが、編纂上の誤り)に、源頼朝の叔父で常陸国信太荘(茨城県稲敷郡の西部から土浦市にかけての一帯)を中心に勢力をもっていた志田(志太とも)義広が頼朝に反旗を翻し、数万の兵を率いて鎌倉を攻撃しようとした。義広は、治承四年の佐竹討伐の際に頼朝に従ったが、翌年、義広による鹿島社領横領を頼朝が禁じたこと(『吾妻鏡』養和元年二月二十八日条)などから、頼朝に不満をもっていたようである。
志田義広が挙兵した当時、頼朝は、平氏追討のため西国に多くの兵を展開しており、関東における権力基盤も不安定であった。そのため、この志田義広の挙兵は、頼朝にとって容易ならざる事態となった。しかし、下野国の豪族で、小山(おやま)荘(栃木県小山市)を本拠とする小山朝政が、偽って義広の誘いに応じ、下野国野木宮(栃木県野木町)で、奇襲攻撃をして志田義広を敗走させたため、この乱も鎮定された。その際、敗走する義広余党を討ち取るため、下河辺行平(しもこうべゆきひら)(下総(しもうさ)国下河辺荘の荘司)と弟の政義が、古我(こが)(古河)・高野の渡しを固めるように命じられている(『吾妻鏡』養和元年閏二月二十三日条)。
古河・高野ともに利根川水系の渡し場で、古河の渡しは向古河(北埼玉郡北川辺町)と古河船渡町(茨城県古河市)とを結ぶところであると推定され、高野の渡しは、須賀と下高野(杉戸町)を結ぶところであると推定されている。いずれも、武蔵国と下総国を結ぶ、利根川水系の渡河点であり、また、関東から東北地方へ向かう奥州道の渡河点としても重要であったと考えられ、古代から交通の要衝であったといえよう。