元亨(げんこう)四年(一三二四)八月二十五日に、鎌倉幕府から称名寺(しょうみょうじ)(横浜市)に対して、遠江国(とおとうみのくに)の天竜川とともに下総国の高野川に架けられている橋の支配権について、先例通り認めるという文書が出されている。高野川は古利根川の異称であるが、古利根川の渡河点である高野の渡しに橋が架けられたと考えられる。称名寺は、文応(ぶんおう)元年(一二六〇)頃に北条(金沢)実時((かねさわ)さねとき)が建てた念仏寺院を、文永(ぶんえい)四年(一二六七)に真言律宗寺院としたもので、金沢北条氏一門の菩提寺として多くの寺領を有しており、境内には金沢文庫がある。当時、古利根川左岸の下河辺荘が称名寺の所領であったため、橋の普請や管理を称名寺が行っており、往来する人や物資に対して通行料を徴収したりしていた。寺社に対して、橋や河川に設けられた関所の支配権および通行料を徴収する権限を認められていた事例として、近隣では、慈恩寺(岩槻市)が、鎌倉街道の元荒川筋の渡河点である御厩瀬渡(みまやせのわたし)の支配権を、鎌倉公方(くぼう)足利氏満によって認められていたこと(永徳(えいとく)三年(一三八三)四月十一日足利氏満御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)(相州文書))や、古河公方足利晴氏が、利根川筋の鷲宮関の支配を鷲宮社の神主に任せていること(年未詳(一五六〇年頃)十月二十四日足利晴氏安堵状(大内良一氏所蔵文書))などが知られている。これは、幕府が、地域の人々に崇敬され、安定した勢力を有する有力寺社に、通行料の徴収権などの得分を認めることによって経済的な保障を与え、その見返りに治安維持などの役割を担わせたと考えることができよう。なお、鎌倉時代末期のものと推測される「万福寺百姓等申状」(金沢文庫文書)という資料があり、「万福寺」とは、対岸の下川辺荘にあったと推測される寺院であるが、ここにも「たかのゝハし」(高野の橋)の文言がみられる。
2-16 高野の渡し付近
『新編武蔵風土記』には、「昔此村に鎌倉街道係りて、久米原村の方より入、古利根川を越え、下高野村に通ぜし由、今其辺を古街道跡と云う。又其頃利根川に架せし橋、杭水中に残りて今にありと云」や、「現に村民次郎右衛門屋鋪の背後、古利根川中に古き杭、今に存せり、嘗(かつ)てこれを抜んとて種々力を盡(つく)せしが、抜得ずして纔(わずか)に杭の頭を切り、臼に作りて今に伝へり」とあり、江戸時代に中世の橋のものと思われる杭があったことがわかる。鎌倉時代の高野の渡しにどのような橋が架けられていたかは明らかではないが、杭があったとすると、水中に杭を立て、板をのせた板橋であったとも、舟をつないで、杭で固定した舟橋であったとも推測できる。
中世においては、常設の橋は一般的なものではなく、鎌倉と京都との連絡路である東海道や、鎌倉街道などの交通の要衝に限られていたようである。東海道の渡河点に架けられたと思われる天竜川の橋とともに、高野の渡しに常設の橋が架けられていたということは、鎌倉街道の古利根川渡河点であるこの地が、交通の要衝であったことを示すものである。