鎌倉時代、多くの武士たちは、将軍(鎌倉殿)と主従関係を結び、御家人と呼ばれた。御家人は、本領安堵(ほんりょうあんど)(武士の開発したり、相伝したりした土地の領有を承認するもの)や新恩給与(しんおんきゅうよ)(新たに土地を与えられること)などの将軍からの御恩に対して、戦時の軍役や、平時でも朝廷の警護を勤める京都大番役、将軍の警護をする鎌倉番役などの奉公をしていた。鎌倉街道は、御家人たちが、「いざ鎌倉」といわれるような非常時に鎌倉に馳せ参じるためや、鎌倉番役で鎌倉へ向かうために使用された道である。各地の御家人が鎌倉へ行く道はすべて「鎌倉街道」であったともいえるが、主な街道は上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)で、いずれも鎌倉から武蔵国へ向い、各地の御家人の居館に通じていた。
2-17 関東御教書 (称名寺所蔵)
上道は、鎌倉から化粧坂(けわいざか)を越えて境川流域を北上し、武蔵府中から関東山地の東麓を北に進んで高崎に出て、信濃、越後へと抜ける。中道は、鎌倉の山内から関東平野の中央部を北に向い、奥州方面に行く道である。下道は、武蔵金沢から江戸湾を東に向い隅田川を渡って下総(しもうさ)・上総(かずさ)に通じる道である。このうち中道が、宮代町域を通っていたようである。宮代町の周辺にも、清久(きよく)氏(久喜)・鬼窪(おにくぼ)氏(白岡)・栢間(かやま)氏(菖蒲)・多賀谷(たがや)氏(騎西)などの御家人がおり、『吾妻鏡』から、これらの御家人たちが鎌倉幕府の様々な役を勤めていたことを知ることができる。彼らは、従者を率い、この鎌倉街道中道を通って、鎌倉へ向かったことであろう。
街道筋の各所に「宿(しゅく)」と呼ばれる集落が形成され、現在も「宿」地名が残っている。「宿」とは、宿泊する建物、または宿泊・休息する機能をもった集落のことである。鎌倉街道筋に多くの「宿」が形成されたことは、頻繁に人や物の移動があったことを示している。