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町域の鎌倉街道

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それでは、鎌倉街道が町内のどこを通っていたのか、検討してみよう。河川の流路の多い平野では、自然堤防や舌状台地の縁辺部を道路として利用することが多かったようである。鎌倉時代末期のものと推測される某書状(金沢文庫文書)に「満福寺堤道事」などという文言にみられることからもうかがえる。

2-18 埼玉県内の主な鎌倉街道

 鎌倉街道というと、現在の国道のような整備された大きな一本道を想像しがちであるが、鎌倉街道と伝えられる道が、二つの道が併行していたり、それらの道に直交する道も鎌倉街道と伝えられていたりする。それは、幹道のほかに時期によって代替道路が建設され、それが鎌倉街道と呼ばれたり、支線のような道も鎌倉街道と呼ばれたりしたことによるものであろう。

2-19 宮代町内の鎌倉街道

 奥州方面から古利根川左岸(下総国)の自然堤防上を南下した中道は、前述の高野の渡しで古利根川を渡り、武蔵国太田荘の須賀郷に入った。高野渡しから、自然堤防上を南下し、真蔵院の南側から東粂原の鷲宮神社に抜ける道が、鎌倉街道であったと考えられる。さらに、台地上を高岩、野田(いずれも白岡町)を経て岩槻方面に通じていたと思われる。また、東粂原の鷲宮神社から南下して爪田ケ谷、太田新井(いずれも白岡町)方面へ抜ける道も鎌倉街道であったと伝えられている。東粂原の鷲宮神社の南側に「宿屋敷」と呼ばれる集落が、鎌倉街道と思われる道筋に沿って南北に形成されていることや、爪田ケ谷にも「宿」地名があることなどから、これが鎌倉街道であったとも考えられる。しかし、ここには、浅い谷が入っており、時期や季節によっては、通行が困難になったとも思われる。比較的寒冷な気候であったと推測される鎌倉時代にはこの道筋が使われ、南北朝・室町時代以降に、前述の道筋が主要になったと考えることも可能である。なお、西光院から姫宮神社に抜ける道も鎌倉街道であったと伝えられている。

2-20 東粂原付近の鎌倉街道 
(昭和60年頃)

 永徳(えいとく)三年(一三八三)四月十一日の足利氏満御判御教書(相州文書)に、渋江加賀入道が花積郷御厩瀬渡(みまやせのわたし)の渡船を横領したという記事がみられるが、岩槻方面へ南下した鎌倉街道は、花積郷の御厩瀬という渡しで、元荒川筋を渡ったようである。