当時の街道の往来は危険と隣り合わせだったようである。『吾妻鏡』建長(けんちょう)八年(一二五六)六月二日条によると、鎌倉幕府は、奥大道に夜盗・強盗が蜂起し往来する旅人のわずらいとなっているので、小山(おやま)・宇都宮・渋江・清久などの鎌倉街道中道沿いの地頭二四人に街道の治安維持を命じている。当時の街道では、夜盗・強盗による事件が多く発生し、そのため、地頭が治安維持のための活動をしていたことが分かる。
鎌倉時代末ころのものと思われる某書状(金沢文庫文書)によると、称名寺領下河辺荘赤岩郷(松伏町)から毎年称名寺に茶一〇斤を納めていたが、途中で悪党に襲われ、二斤を奪われたので、八斤しか納められなかったという。称名寺は、事実を確認すべく折檻を加えたが、茶は八斤しかないのでこれを事実として認めたようである。この書状は後欠であり、事件の詳細は不明であるが、当時の街道の往来が危険であったことを伝えている。