中世のこの地域に市場が存在したことをうかがわせることで知られる「市場之祭文」という資料がある(武州文書)。「市場之祭文」とは、市が開かれる際に行われる市祭りで、修験者(山伏)(しゅげんじゃ(やまぶし))が、市の無事と繁栄を祈って市神(市杵島比売神(いちきしまひめのみこと))にささげる祝詞(のりと)のことである。前半部分(祭文の本文)では、市の由来や、商業がいかに繁栄をもたらすか、ということが長々と述べられている。「謹請散供再拝々々、敬白」と始まるこの祭文は、市は伊勢天照大神(いせあまてらすおおみかみ)・住吉大明神のはかりごとで、市の由来は天竺(てんじく)の門前市であるとする。天竺の門前市をわが国に移し、守護神を崇(あが)め、日本国王城の東、武蔵国の荘郷に市を立てて、種々のものを交易するという。そして、わが国の市は、大和国三輪市が起源で、古来、住吉の浜、常陸の鹿島大明神、尾張の熱田(あつた)大明神、下野の日光権現、出羽の羽黒権現、信濃の諏訪大明神、武蔵の六所大明神・氷川大明神などの門前に市が開かれたことを説き、市を立てると、神の恵みをうけ、国家は安泰となり、人民は豊かになると説いている。この祭文は、周辺の村々から人々を集め、市神の門前で読み上げられたと思われるが、このような祭文が読み上げられたということは、市が単なる商行為にとどまらず、神のなせるわざであり、人々に豊かさをもたらすものであると考えられていたからであろう。
2-21 市場之祭文写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)
前半の祭文に次いで「本書者、延文(えんぶん)六年辛丑九月九日 今書、応永(おうえい)廿二年七月廿日」とあり、延文六年(一三六一)に書かれたものが、応永二十二年(一四一五)に写されたというが、延文六年は三月二十九日に康安(こうあん)元年と改元されていることなどから、延文六年の作成については疑問視されている。
後半には、武蔵国や下総(しもうさ)国の三三か所の市が列記されている。これらの市は、修験者による市祭の祭祀圏を示したものと考えられているが、「是ヨリ書ヅキノ様見ユル」という書き入れがあるので、これらの市は一時期に存在していたものを記したのではなく、順次書き加えられたものであろう。これらの市の成立時期については明らかではないが、この地域に三三か所もの市が立つようになったのは、戦国時代のことであると考えられている。
2-22 「市場之祭文」にみえる市とその比定地
ここに挙げられている市のうち、大門・岩付・野田・久米原・須賀などは鎌倉街道中道に沿っており、また、多くの市は荒川・利根川などの河川流域に分布している。このことから、街道や河川などの交通の要所に市が立てられ、人や物が集まってきたということができる。
祭文にあるように、市は単なる商行為ではなく、神のなせるわざであると理解されているので、市と神仏とは密接な関係にあり、人間が神仏と接触する場である神社仏閣の門前に立てられることが多かった。また、物品の交換や売買という機能から考えると、物資輸送が容易であり、人の集まりやすいところに立てられることになる。そこで、交通の要所にある寺社の門前に、市が立てられることが多かったのである。
2-23 市場之祭文に見える地名