2-24 東粂原鷲宮神社
2-25 真蔵院
久米原・須賀などの市の立てられた村々には、市神が勧請され、祀られていたと考えられる。久米原には、かつて字野方(あざのがた)に厳島神社があり、市杵島比売命が祀られていたが、明治四十年(一九〇七)五月に西粂原の鷲宮神社に合祀(ごうし)された。須賀には、字宿に市杵島比売命を祀(まつ)る厳島神社があったが、昭和七年(一九三二)十月に身代神社に合祀された。このように、市の立てられる村には、市神である市杵島比売命が祀られており、市の無事と繁栄を願う人々に崇敬(すうけい)されていた。
鎌倉時代になると、農業生産力の向上や手工業の発達によって商業が発展し、中国から大量の銭貨が流入して貨幣経済が進展したことなどによって、各地で定期的に市が開かれるようになった。この時代の定期市は、寺社の門前や地頭・御家人の館で開かれ、多くは月三度の日切市で、三斎市(さんさいいち)と呼ばれた。南北朝・室町時代には、商業の発展や日明・日朝貿易による銭貨や唐物の流入によって市はさらに普及・発展し、月六度の六斎市も登場した。なお、中世の定期市を三斎市・六斎市と呼んだのは、仏教の行事と関連して斎日(在家信者が精進する日)に市が開かれたことに由来するという。
それでは、これらの市ではどのようなものが取引されていたのだろうか。中世の市では年貢物の代銭納のための販売や、地域の生産物の交換が中心であったと考えられている。宮代町域や周辺の市でどのようなものが扱われていたのか、資料で明らかにすることはできないが、中世の遺跡の出土品からその一端をうかがえる。
宮代町内では、地蔵院遺跡や中寺遺跡などの発掘調査で、中世の堀・井戸などの遺構や、多くの遺物が発見された。これらの遺物の中には、北宋の元祐通宝(げんゆうつうほう)、明の永楽通宝などの中国からの渡来銭や、中国でつくられた青磁などの磁器、常滑(とこなめ)・瀬戸・美濃などの日本列島各地の窯で生産された陶器も含まれている。これらの銭貨や陶磁器は、市で取引されたとも考えられ、商業や貨幣経済の発展をうかがうことができる。
このように「久米原」や「須賀」などの交通の要所にあった神社仏閣の門前などに定期的に市が開かれ、自然堤防上や台地の縁辺に点在する近郷の村々から、人々が集まり売買が行われたようである。そこでは、近隣の村々で生産されたものが売買されるばかりではなく、遠隔地からも珍しいものを携えた商人がやってきて、取引が行われていたことであろう。