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須賀郷の支配と小山(おやま)氏

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これまで述べたように、旧利根川水系の自然堤防上に集落が点在し、鎌倉街道筋で、交通の要衝にある須賀郷は、市が立つなどして栄えていた。『吾妻鏡(あづまかがみ)』の元久(げんきゅう)元年(一二〇四)十一月十七日条に、鎌倉法華堂(ほっけどう)の重宝を盗んだ盗賊が「武蔵国洲河(須賀)地頭」に捕らえられ、翌十八日の条には、地頭が恩賞を得たという記事がある。地頭とは、荘園や公領(国衙(こくが)領)の現地の支配者の呼称であったものを鎌倉幕府が制度化し、御家人を任命して、土地の管理・年貢徴収・治安維持などに充たらせたものである。鎌倉法華堂の重宝を盗んだ盗賊が、鎌倉街道を北上して逃げる際に、この地を治めていた地頭に捕らえられたことがわかる。関東で悪事をはたらいた者が、東北方面へ逃れる際には利根川水系の渡河点であるこの地を通るため、この地は軍事や治安維持のための重要な拠点であったと考えられる。
 下野(しもつけ)国の守護で、小山荘を本拠とする小山朝政(ともまさ)が、寛喜(かんぎ)二年(一二三〇)に嫡孫長村(ちゃくそんながむら)に所領を譲り渡した譲状に、「武蔵国 上須賀郷」とある。須賀郷に「上」・「下」があり、それがどの範囲を指すかということは、ここでは確認することはできないが、この資料から、鎌倉時代の須賀郷は、小山氏によって支配され、相伝されていたことがわかる。太田荘の開発領主太田行尊が、小山氏の先祖に当たることなどから、小山氏と太田荘との関係がうかがえる。小山氏は、南北朝期に小山城の外城として鷲城を築き、太田荘の総鎮守である鷲明神(鷲宮町)を分祀している。前章で述べたように、建久(けんきゅう)五年(一一九四)に幕府の直轄領となった太田荘の一部である「上須賀郷」が何らかの理由で、小山氏に与えられ、支配されていたと考えられる。

2-26 小山朝政譲状 (小山氏所蔵 小山市立博物館提供)


2-27 鷲城跡