足利尊氏と弟の直義(ただよし)との対立から、観応(かんおう)元年(一三五〇)以降、観応の擾乱(じょうらん)と呼ばれる争いが起こり、南北朝の内乱は複雑化・長期化した。このような状況下で、延文(えんぶん)四年(一三五九)、関東管領畠山国清に率いられて畿内の南軍制圧に参戦していた東国の領主が相次いで帰国したため、国清は無断で帰国した諸氏の所領没収などの処分をした。しかし、所領を没収された諸氏が、国清の罷免を要求して鎌倉公方足利基氏に強訴したので、国清は罷免された。罷免された国清は、反乱を企てたが、失敗に終わった(畠山国清の乱)。この事件は、東国の領主層の成長を示すものであるが、室町幕府や鎌倉府にとっては、このような領主層の動向は放置できないものであったと思われる。そこで、畠山国清の乱後に登場したのが、上杉憲顕(のりあき)である。憲顕は、貞治(じょうじ)元年(一三六二)に上野・越後(こうづけ・えちご)両国の守護となり、翌年には、関東管領に就任した。上杉氏はこの後、関東管領を世襲するが、上杉憲顕の関東管領補任(ぶにん)には、幕府の強い意向があったようである。東国領主層の独自の動きを抑え、政局を安定させることが求められていたのであろう。
上杉憲顕の登場によって、上野と越後の守護であった宇都宮氏綱や、相模守護であった河越直重は守護職を失うことになった。宇都宮氏綱は、重臣芳賀禅可(高名)(はがぜんか(たかな))とともに抵抗し、上杉憲顕に反発して蜂起したが、鎌倉公方足利基氏に敗れて、降伏した。応安元年(一三六八)、河越氏を中心とし、高坂・江戸・古谷・土肥などの平姓諸氏によって構成された平一揆が蜂起し、宇都宮氏綱もこれに呼応して、連合して上杉憲顕に対抗しようとした。しかし、この動きは失敗に終わり、一揆は滅亡した。
このような状況下で、下野国の守護であり、太田荘をはじめとする多くの所領を有する小山氏の存在は、鎌倉府にとって、警戒すべきものであったと考えられる。康暦(こうりゃく)二年(一三八〇)に、小山義政は、鎌倉公方足利氏満の制止にもかかわらず、下野裳原(もばら)(宇都宮市)に宇都宮基綱を攻め殺した。これは、小山氏と宇都宮氏との私戦であったが、鎌倉府にとっては、小山氏の勢力を削減する機会となった。鎌倉公方足利氏満は、関東の諸将に義政追討を命じ、小山周辺で合戦が繰り広げられた。義政は、降伏と抵抗を繰り返し、二年後の永徳(えいとく)二年(一三八二)に自害した。しかし、義政の子若犬丸は、応永(おうえい)四年(一三九七)に自害するまで、数度にわたって反抗を企てている。これらの一連の争乱は、南北朝の内乱の過程で成長した東国の伝統的領主層と、東国の支配者である鎌倉公方―関東管領との対立によるものであるが、これらの反乱を鎮圧することにより、鎌倉公方による東国支配が確立したといえよう。
小山氏の支配していた太田荘は、鎌倉公方に没収され、直轄領となった。永徳二年十二月二十五日には、小山義政討伐に功のあった武蔵七党丹党(たんとう)の一族で、安保(あぼ)郷(児玉郡神川町)を本拠とする安保憲光(のりみつ)に、「須賀郷半分」(「上須賀郷」と同じ範囲か)が恩賞として鎌倉公方足利氏満から与えられている。安保氏の「須賀郷半分」支配は、応永二年(一三九五)まで続き、同年十月十七日に、安保憲光が「須賀郷半分」の替地として、「常陸国下妻庄小嶋郷半分」を与えられたことによって終わりを迎えた。
2-29 足利氏満充行状 (横浜市立大学学術情報センター本館所蔵)
2-30 足利氏満充行状 (横浜市立大学学術情報センター本館所蔵)
この後の須賀郷の支配については、鎌倉公方が、永徳元年十月、太田荘内慈恩寺別当職と寺領七郷を遍照院頼印(へんじょういんらいいん)に寄進していること(明治百年大古文書展出品目録)や、安保憲光に一旦与えた「須賀郷半分」を没収して替地を与えていることなどから、鎌倉公方が太田荘の土地の支配権を行使していることを確認できるので、太田荘が鎌倉府の直轄領となっており、須賀郷も鎌倉府の直轄領としての支配を受けていたと考えられる。北関東に強大な勢力を有する伝統的豪族である小山氏の反乱を鎮圧し、利根川水系と鎌倉街道中道とが交差する交通の要衝にあり、北関東支配にとって重要な拠点である太田荘を直轄領化した鎌倉府の東国支配は、その後しばらくの間、安定していた。